「30-30」まであと「1」に迫った選手。幻の本塁打があった長嶋茂雄の他にも…
1シーズンに30本塁打以上と30盗塁以上の「30-30」は、これまでに12人(延べ18人)が達成している。
一方、「30-30」ではないものの、1シーズンに25本塁打以上と25盗塁以上を記録した選手は、17人(延べ19人)を数える。2003年に27本塁打と42盗塁の井口資仁は、その2年前に「30-30」を達成した。
2003年の井口を含め、「30-30」まであと「3」以内は8人。そのうちの5人は「30-30」にリーチをかけた。1950年に33本塁打と29盗塁の青田昇、同じく1950年に29本塁打と34盗塁の川上哲治、1958年に29本塁打と37盗塁の長嶋茂雄、1972年に29本塁打と31盗塁の有藤通世、1984年に29本塁打と46盗塁の大石大二郎がそうだ。青田以外の4人は、ホームランが1本足りず、その当時に認識していたかどうかはさておき、「30-30」を逃している。
このなかで最も惜しかったのは、長嶋だろう。一軍デビューの1958年は、一塁を踏まなかったとしてアウトになった「幻のホームラン」が1本あった。また、1950年に青田と川上が在籍していた読売ジャイアンツは140試合を行ったが、他3人のチームはいずれも130試合だ。今日と比べると、10試合以上少ない。長嶋は1958年の日本シリーズに出場し、2本のホームランを打った。
長嶋の2年目は、27本塁打と21盗塁。その後の「20-20」はなく、20盗塁以上も3年目の31盗塁が最後ながら、20本塁打以上は最初の2シーズンを含めて13度あり、1963~64年と1968~69年、1971年は30本を超えた。それぞれのキャリハイキャリアハイは、ホームランが1968年の39本、盗塁は1958年の37だ。
青田は30盗塁以上のシーズンがなく、川上、有藤、大石は30本塁打以上のシーズンが皆無だった。青田、川上、有藤のホームランと盗塁は、3人とも「30-30」まであと「1」に迫ったシーズンが、ともにキャリアハイ(有藤は1979年も29本塁打)。大石はその前年に60盗塁を記録しているが、こちらも、ホームランは1984年の29本が最も多かった。
なお、この5人は、全員がタイトル・ホルダーだ。青田、川上、長嶋は、首位打者、本塁打王、打点王のタイトルをどれも手にしていて、その合計は、3人のなかで最も少ない青田でも8度。有藤は1977年に首位打者を獲得し、大石は盗塁王に4度なっている。
なお、「30-30」を「トリプルスリー」と「それ以外」に分けない理由については、こちらで書いた。