【光る君へ】あまりに無念だった、藤原道隆の死因や最期とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道隆の最期が描かれていた。自分の死のこともあるが、子である伊周が後継者になれなかったのだから、さぞかし無念だったに違いない。その死因や最期について、考えてみることにしよう。
長徳元年(995)4月10日、正二位で関白の藤原道隆が亡くなった(『公卿補任』)。同年4月24日に葬送が執り行われた。『小右記』には、道頼(道隆の子)が忌中における装束などについて、藤原実資に質問をしている。
ただ、『小右記』、『日本紀略』、『公卿補任』には、道隆が亡くなったことを記録しているが、死因はもとより、死に至る経過までは書かれていない。
歴史物語の『栄花物語』には、道隆が水ばかり飲んでいたと記されている。やがて道隆は病気になり、長徳元年(995)4月6日に出家した。これは道隆が僧侶になろうと思ったのではなく、死期を悟ったからである。それから、わずか4日後に道隆は亡くなったのである。
ところで、道隆が水ばかり飲んでいたというのは、いささか気になるところである。『大鏡』によると、道隆は大変酒が好きだったという。
特に、藤原済時と藤原朝光とは、酒を楽しむ仲間だったという。ときに、道隆はあまりに酒を飲み過ぎて、人前で烏帽子を脱いだこともあるらしい。当時、人前で烏帽子を着用しないのは、マナー違反だった。
問題となるのが、道隆の死因である。先述のとおり、記録類には道隆の死因は書かれていない。それは、歴史物語の『大鏡』や『栄花物語』も同じである。そうなると、気掛かりなのは道隆が大酒飲みであり、しかも死の間際に大量の水分を摂っていたことである。
大量の水分を摂っていたというのは、飲水病つまり糖尿病の可能性がある。今でも糖尿病になると、大量に水を飲むのはよく知られている。
また、大酒飲みが糖尿病に罹りやすいのは、今も同じである。道隆の死因は、当時、大流行していた疫病(天然痘)であるとの説もあるが、どちらが正しいのだろうか。
今の段階では断定するのは難しいが、もともと道隆は糖尿病を患っていた可能性がある。そこに疫病が蔓延し、それが少なからず影響したのではないだろうか。
いずれにしても、道隆の死の影響は大きく、その後の政治的な展開にも影響したのである。