徳川家康が五奉行から激しく糾弾された当たり前の理由
大河ドラマ「どうする家康」では、ついに徳川家康が私婚を進めたことにより、五奉行から激しく糾弾された。この辺りの事情について、詳しく検討することにしよう。
慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が病没すると、徳川家康がほかの大名と無断で縁組をしたことで、五奉行らから糾弾された。
生前の秀吉は大名間の縁組が同盟関係につながることを恐れ、文禄4年(1593)8月に御掟(「周南市美術博物館寄託文書」など)を定め、大名間の縁組にはあらかじめ秀吉の許可を得ること、そして大名間で盟約を結ぶことを禁止した。この規定は、秀吉の死後も有効だった。
家康の私婚は秀吉の「掟」に違反したが、一方で秀吉は五大老間に限り、婚姻関係による結束を勧める掟を定めた。
ところが、家康が縁組した相手は五大老の子女ではなく、家康与党の伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則らだった。つまり、家康が婚姻を通して、多数派工作、与党形勢をしたと思われたのである。
たとえば、家康は堺の町衆の今井宗薫の仲介によって、政宗の子女と縁組を行った(『伊達成実記』など)。これは、秘密裏に行われたので、五奉行らは激怒した。
五奉行は秀吉の「掟」を盾にして、婚儀を斡旋した宗薫を死罪にすると息まいた。しかし、家康と政宗は宗薫を死罪とするならば、合戦をも辞さないという強硬な態度を見せたので、五奉行は宗薫の死罪を実行しなかった。
しかし、慶長4年(1599)2月、家康は「掟」への違反を認め、五奉行に「掟」を遵守する旨を誓約することで(「慶長三年誓紙前書」など)、私婚問題は解決したのである。
最近の研究によると、秀吉死後の大名間の対立構造がこの事件の背景にあり、それが表面化したものだったと指摘されている。同時に、大名間における系列化も進んだ。
毛利氏と四奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)のグループ、そして前田利家・浅野長政・宇喜多秀家のグループが形成され、家康の動きを牽制していたという。
四奉行が頼りにしたのは、前田利家だった。家康が政権の主導権を掌握し、多数派工作を展開していたことに強い危機感をいだいたのだろう。
一方、家康を支持する大名がおり、池田輝政、福島正則、黒田孝高・長政、藤堂高虎、森忠政、有馬則頼、金森長近、新庄長頼らがその主要なメンバーだった。彼らは家康与党として、その後も重要な役割を果たすことになり、関ヶ原合戦では東軍に与した。
秀吉の死後は、家康や輝元を中心にして、政権内部で大名の派閥、系列化が図られていた。そして、以後はそれぞれが政権の主導権を握るべく、水面下で権力闘争が繰り広げられた。こうした抗争の激化が関ヶ原合戦へとつながったのである。