大震災から10年 中国人が今も感動している、日本人が自然に取った「ある行動」
東日本大震災の発生から10年。あの日の未曾有の出来事は、多くの人の胸に今も深く刻み込まれているが、それは日本人だけに限らない。日本に住んでいた外国人や、日本と関わりが深く、外から日本を見ていた外国人にとっても同様だった。10年前にインタビューした中国人の声をお届けする。
私よりもっと大変な人がいるんですから
当時、日本への留学を目前にしていた上海在住の20代の男性がいた。男性は日本行きの準備をしながら、上海市内の自宅のテレビで被災地の様子を見ていて、とても驚いたことがあったという。
「テレビに映っていた被災者の方々が、取材者に対して、『大丈夫です。私より、もっと大変な目に遭っている人が大勢いるのですから』とほぼ全員、口にしていたことです」
長い間、列に並んで、やっとパンを1個もらえるという厳しい状況なのに、自分のことは我慢して、ほかの人に食料を分け、貴重な毛布まで渡してしまう。あの見事な自己犠牲の精神は、震災を経験しなければ、日本に住んでいても気がつかなかったことでしょう。それまで、日本人は贅沢で、他人のことには無関心だと思ってきましたから」
この男性は今も日本に住み続けているので、連絡を取ってみたところ、「ふだんの日本人は冷静であまり感情を表に出さないので、気持ちがよくわからないことがよくあるんです。でも、あんなに悲惨な災害に遭ってしまったことで、ふだんは決して見られない日本のすばらしい一面を見ることができました」と話してくれた。
20年前に東京に留学した経験があり、その後、上海で教師となった女性も、あのとき、食い入るように震災のニュースを見ていて、いくつか気がついたことがあったと、当時、私のインタビューに応じてくれた。
1つ目は、着の身着のままで逃げ出した被災者の服装がみんな小ぎれいで、仮設住宅も立派だったことだ。
中国人を津波から守ってくれた日本人
「四川大地震の映像を見た自分としては、率直な感想でした。日本人はどんなに混乱していても、服装はきちんとしている。仮設住宅といったって、最低限の生活はできる。私はそういう日本の全体的な質の高さにびっくりしたんですよ。あのとき、寒いのに、節電しなくちゃいけない。大変だ大変だ、といっていたでしょう? でも、駅の明かりは、私が住んでいた田舎よりもずっと明るかったんですから」
震災の混乱の中、中国で最も大きく報道されたニュースのひとつは、宮城県女川町の水産加工会社「佐藤水産」の佐藤充専務が、中国人研修生20人を誘導して避難させ、津波から守ってくれた、という感動的なエピソードだった。佐藤さんは、中国人たちを安全な高台に移動させたあと、自らは高台から降りて、津波の犠牲になってしまい、帰らぬ人となった。このニュースは中国でも大々的に報道された。
この女性は「地震発生の当初、中国のSNSなどでは、日本の不幸を嘲笑するような書き込みも少なからずあったのですが、このニュース以降、ピタッと止まりました。日本人の犠牲の精神に感激する書き込みが急激に増えたんです」という。
日本人は自然にやっていることだが……
この女性にも、震災10年を前に、久しぶりに連絡を取ってみた。
「佐藤充さんのお名前を今も覚えている中国人は少なくないと思います。あのころ、中国人の対日感情はあまりよくなかったんですが、あのニュースで、日本を見る目がガラッと変わったと記憶しています」
もう1つ、女性が気がついたのは、震災の翌週から、何とかして出勤しようと駅に何時間も並ぶ日本人の理路整然とした姿だった。
「あんなに大変なことがあったのに、すぐに会社に行こうとするなんて……。しかも、出勤のときも、退勤のときも、駅の階段の端に並んで、階段を行き来する人のために通路をあけていることに、とても驚きました。駅員さんとか、誰かに指示されたわけではないでしょう? 日本人は自然に取っている行動だったんでしょうけれども、あのきちんとした、そして静かな行列を見て『あんなこと、中国人にできる日は来るんだろうか?』と感心したものでした」
「実際、あれから10年もの月日が経って、中国と日本の関係は変わったし、中国はものすごく豊かになりました。上海の人々のマナーもずいぶんよくなったのですが、でも、いざ大混乱が起きたとき、とっさにああいう行動が取れるだろうか……と考えると、私は今でも自信がありません。だから、私は中国の学生たちに、あのとき日本人が取った行動の尊さを教えているんです。ええ、きっと、これからも、教え続けることでしょう」
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