映画『カニバ』を機に知ったパリ人肉事件・佐川一政さんの近況
発売中の月刊『創』(つくる)7月号は映画の特集だ。表紙は公開中の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』だ。但し独自性が売りの『創』の場合、映画特集といっても取り上げている映画のラインナップはかなり異色。メインがドキュメンタリー『主戦場』で、『新聞記者』や『長いお別れ』などはよいとして、大きく紹介しているのが佐川一政さんを描いた『カニバ』だ。
なぜこの映画を大きく取り上げたかというと、佐川一政さんとは以前、親しくしていて、しばらく音信不通だったのだが、この映画を通して近況を知ることができたからだ。パリ人肉事件という世界中を震撼させた凶悪事件の犯人なのに、心神喪失と診断されて(実は誤診だった)市民社会に復帰したという異端の人なのだが、今回『創』に書いた彼と映画『カニバ』についての記事をここにアップしておこうと思う。
映画はプレミア上映で半数が途中退席
7月12日から映画『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』が公開される。パリ人肉事件の佐川一政さんを撮ったドキュメンタリー映画で、第74回ヴェネチア映画祭でオリゾンティ部門審査員特別賞を受賞したという。
映画は2人の外国人の映像作家が来日して撮ったもので、佐川さんのアップの表情を固定カメラで撮り続けるなど、制作者の感性が全面に表われた作品だ。私は佐川さんとは以前親しく付き合っていたから、その近況を興味深く観たが、映画館でこの映画を観る人は、好き嫌いの反応が分かれるだろう。実際、ヴェネチア映画祭のプレミア上映では、半数が途中退席したという。
そもそも1981年に起きたパリ人肉事件自体、知らない人が多いかもしれない。パリ留学中だった佐川さんが、学校で知り合ったオランダ人女性を自分のアパートに招いて背後からカービン銃で殺害。その女性の遺体を切り取って食べた、という猟奇的な事件だった。当時は世界中を震撼させた。
フランス警察に逮捕された佐川さんは精神鑑定を受けるのだが、あまりに常軌を逸した犯行と、フランス語がうまく通じなかったこともあって、心神喪失と判断された。不起訴になって84年に日本に送還され、精神病院として知られる松沢病院に入院する。でも、そこでは問題なしと診断されて85年8月に退院。どうやらフランスでの精神鑑定は誤診だったらしい。こうして佐川さんは何の刑罰も科せられず、市民社会に復帰したのだった。
当時は写真週刊誌全盛時代で、佐川さんは『フォーカス』や『フライデー』の格好の餌食になる。『週刊新潮』の「気をつけろ! あの佐川君が歩いてる」という見出しが話題になった。
そうするうちに89年に連続幼女殺害事件で逮捕された宮崎勤死刑囚が、裁判で、殺害した幼女の骨などを食べていたなどと証言して大きく報道される。そこで佐川さんに改めて注目が集まり、彼のコメントが週刊誌やワイドショーに取り上げられた。『創』が佐川さんと接点を持つのはその89年だった。佐川さんの最初の手記が載ったのは89年11月号だ。
「僕は誰? ここはどこ?」と題された手記で佐川さんは、週刊誌やワイドショーに翻弄されている自分を振り返り、自分のアイデンティティは何なのかと考察する。メディア批判としてもよく書けた原稿だった。自分はいったい何者なのか、というのは、その後も佐川さんが一貫して自問自答する問いで、そういう心情を彼は、90年2月号「歯車 パリ人肉事件と精神鑑定」、6月号「『彼』の場合 幼女連続殺害事件とカニバリズムの考察」と『創』に書き続けた。
私は当時、佐川さんの書いたものを評価していたので、角川書店で当時役員だった見城徹さん(安倍首相の応援団となってしまった現在とは違い、当時は反骨・反権威の編集者だった)に、佐川さんの著書刊行を持ちかけた。
佐川さんはパリでの事件後、犯行の一部始終を記録し、彼が送還される前の84年に日本で『霧の中』として話の特集から出版され、ベストセラーになっていた。でも佐川さん本人はまだ完成していない原稿を勝手に出版されてしまったと怒っていた。自分の事件について改めてきちんとした作品にしたいという希望を持っていたのだった。
それが結実したのが90年に角川書店から出版された『サンテ』だった。そして91年には河出書房新社から『蜃気楼』を出版する。新人作家としては恵まれたデビューだった。
元少年Aが熱いオマージュ
それがヒットしていれば恐らく佐川さんは「異端の作家」として認められていたと思う。でも残念なことに、『サンテ』は売れなかった。『創』とのつきあいはその後も続き、佐川さんはいろいろなテーマで原稿を書いては編集部に持ち込んできた。
今でも覚えているが、佐川さんの父親に誘われて3人で新宿の中華料理店で食事をしたことがあった。その席で、父親は私に「息子を頼みます」と頭を下げた。息子の事件で大企業の社長を辞任し、脳梗塞を患った父親だったが、息子の将来を気にかけていたのだった。
佐川さんは一時期、私だけでなく、森達也さんや鈴木邦男さんらとも親しくなっていた。しかし、なかなかうまく行かなかった。佐川さんは次第に、仕事もないので生きていくためには仕方ないと語り、周囲が心を痛めるような事例が続くようになった。
例えば、殺害した女性の遺体の写真を掲載した本を出版したことがあった。恐らく鑑識写真なのだろう、掲載されていた女性の遺体は一部が切り取られていた。女性が殺害された上に人格を全否定されているようで、正視に堪えなかった。それを載せた本は、発売直後に書店が販売を中止したと記憶している。
また自分が性的関係を持った外国人女性を実名・顔写真入りで載せた本を出版して回収を求められる騒動になったこともあった。その頃の佐川さんはただ痛々しい感じがして、次第に関係は疎遠になっていった。
その後、佐川さんが脳梗塞で倒れたという話は風の便りに聞いていたが、それ以降の消息は知らなかった。そして今回、映画をきっかけに、弟の純さんから近況を詳しく聞くことができた。
実は4年ほど前に佐川さんがクローズアップされたことがあった。2015年に神戸児童殺傷事件の元少年Aが『絶歌』を出版して騒動になった時に、彼が立ちあげたホームページで、佐川さんについて語っていた。元少年Aにしてみれば、犯罪を犯しながら市民社会で生きていくという自分のあり方を佐川さんに重ね合わせたらしい。ホームページでこんなふうに書いていた。
《『佐川一政』という稀代の殺人作家の存在は、いつも僕の心の片隅にあった。正直に言えば、彼に”嫉妬”や”羨望”を抱いていた時期もあった。
同じ殺人者でありながら、彼はまったく反省することなく、開き直って自身の犯罪をネタに金を儲け、周囲からちやほやされ、もてはやされ、罪を咎められることもなく、何ら苦悩することもなく、気楽に自分の好きな事だけをやって生きている人のように見えた(実際はそんなことはないだろうと思う)。それに比べ、自分の置かれている惨めな環境、名前を失い、自らを語る声を失い、生きているのか死んでいるのかもわからない毎日が、歯痒くてならなかった。
憧憬の念が裏返り、佐川氏を激しく憎んだこともあった。あんただって人殺しのくせに、どうして堂々と表にでられる? なぜ誰も彼を止められないんだ?》
《彼のことを”世界一恵まれた殺人者”だと思ったりもした。
でも、それは間違いだった。
僕は何もわかっていなかった。
彼の哀切をきちんと想像することができていなかった》
《佐川氏には、自身の犯した犯罪を自慢げに吹聴したり、やや開き直ったような言動が目立つ。でもそれは、世の中が彼にそうするように焚きつけた側面もあったのではないかと思う。もちろん、周囲がどう反応しようと、最終的にどう生きるかは本人次第であるし、責任転嫁できることではない。ただ、佐川氏自身が、『事件以外に自分には何もない』と諦めてしまったのは、哀しいことであると思う》
佐川さんへの熱いオマージュだった。佐川さんが読んだら勇気づけられることは確実だった。でも今回、純さんに話を聞いてわかったが、当時、佐川さんはそういう状態ではなかったのだった。
以下、佐川一政さんの弟、純さんとの一問一答を掲載する。それは、今回公開される映画の背景を語ることでもあった。
弟・純さんに、この10年近くの経緯を聞いた
――兄の一政さんとはいつから同居するようになったのですか?
純 兄が2013年12月に脳梗塞で倒れたんです。当時、僕は別のところに住んでいましたが、見守りのお弁当屋さんが見つけて区役所に伝えてくれて、僕のところに連絡があったのです。急いで兄のアパートに駆け付けると、中から「助けてくれ」と声がしました。それで大家さんに開けてもらって救急車で病院に運んだのです。
それで2014年2月まで入院したのですが、退院してから僕は介護のために一緒に暮らすようになりました。
――同居している家で、今回の映画をいつ、どんなふうに撮影したのですか?
純 2015年6月に、約1週間で撮りました。1回に4~5時間ずつカメラを回しました。カメラは2台あったのですが、どのシーンをどう撮ってどんな映画にするといった説明もなく、カメラの1台は固定させて兄の表情などをずっと撮っていました。
例えば昼になってお弁当屋さんが来ると、「じゃあお弁当を口に持っていくところを撮りましょう」といった感じでした。だから私たちも、どんな映画になるのか完成するまで全くわからなかったのです。
――当時、一政さんはどういう生活だったのですか?
純 入院していたのは松沢病院でした。兄が事件の後、フランスから送還されてきて入院した精神病院です。なぜ松沢病院に入院したかというと、最初に運ばれた病院で、幻覚が見えるとか、そんなことを言ったらしいんです。そこで、これは統合失調症ではないかと、1週間くらいで転院したのです。どうも誤診だったようですがね。
その後、2014年に退院するのですが、介護が必要だということになって僕が同じアパートの別の部屋に移るのです。最初は歩くことはできたので僕の部屋と行ったり来たりしていたんですが、そのうち足が弱ってきて介護ベッドでの生活が始まり、ついには車椅子生活になってしまいました。
――普通に話したりできていたのですか?
純 脳梗塞の影響が残って、話も聞き取りにくいし、空間把握ができなくて、医者に画用紙に名前を書いてと言われても指示されたところに書けないんです。当時は週1回、訪問医療で医者に来てもらっていました。
そういうリハビリ生活の過程で、ドキュメンタリー映画を撮りたいという依頼を受けたのです。撮影した頃は一応会話ができていますが、会話をしない日が多くなって、だんだん話もできなくなってきます。
――2015年に神戸児童殺傷事件の元少年Aがホームページを立ち上げて、佐川一政さんについて書いていましたが、一政さんはそれを見てないのですか?
純 見てないと思います。インターネットをやるような状態ではありません。一時、携帯電話を使おうとした時期がありましたが、それもやらなくなったので、ネットはいっさい見ていないですね。
ただテレビは見ていました。ポータブルテレビを置いていて、相撲はよく見ていたし、『相棒』が好きで、僕が録画していったのをいつも見ていました。
ほとんど寝たきりだが、意識ははっきりしている
――ずっとアパートで純さんが介護していて、その後再び入院したわけですね。
純 去年6月ですが、誤嚥性肺炎になって、入院したのです。すぐに「ああ、これは胃ろうしないといけませんね」と言われて胃ろうを続けています。それから痰の吸引ですね。それを続けながら、その病院は長期入院ができないので、9月に転院しました。主に精神科の病院です。そして今年4月に療養型の病院に空きができたので移ったのです。
――一政さんは寝たきりなんですか?
純 ほとんど寝たきりですね。意識ははっきりしています。でも滑舌が悪いので、僕でないと何を言っているのかわからないかもしれません。胃ろうを続けているので普通の食事はできないのですが、兄は食べるのが好きなので、いつも「ウナギを食べたい」とか「ワインを飲みたい」とか言っています。
――両親が亡くなった時のことをお聞きしたいのですが、ネットを見ると、ウィキペディアには、父親が亡くなり、母親が後を追って自殺したと書かれていますが本当ですか?
純 全く事実と違います。どうしてそういう話になっているのかわかりません。
――ガセネタなんですか、それは。
純 2004年12月に母が倒れるんです。父が脳梗塞になってから、ずっと母が看病していたんですが、看病疲れなんでしょうね。間質性肺炎というのになって倒れたんです。救急車で病院に運んだら、これはもう1カ月持てばよい方ですねと言われ、喉を切開して人工呼吸器をつけました。
父もその頃、入院していたのですが、どんどん容態が悪くなって、05年1月3日に亡くなってしまいます。葬儀屋さんが遺体を運んでいくのですが、そこへ電話がかかってきて母が危ないので来てくださいと言われ、駆け付けてみると、「もうあと数時間です」と言われたんです。そして母も数時間で息を引き取ってしまうんです。葬儀屋さんが、どうせなら一緒に合同葬儀にしましょうと言ってくれて、そうしました。
父は兄の事件直後に上場企業の社長を辞任したのですが、会社の方が社葬にしてくれました。そこで父と一緒に母の葬儀も行ったのです。でも株主に知られるとまずいからと、ひっそりとした社葬にしました。葬儀会場には兄が顔を出してはまずいと、兄は別の部屋でモニターで見ていたんです。会社の人たちは終始ピリピリしていましたね。
――父親は脳梗塞でしたよね。
純 兄の事件直後に脳梗塞で倒れたんです。その後、もう一度、脳梗塞で倒れています。
父なりに兄のことは気にかけていて、兄が物を書き始めた頃にも、石原慎太郎が一橋大の後輩だから何か頼めないだろうかと言っていました。
――一政さんが事件について書いた『霧の中』が発売された時には、新宿の紀伊国屋書店に行って、並べてあった本をめちゃくちゃにしたという話もありましたね。
純 その時はそうでしたが、その後、ちゃんとした本は書いてほしいと思っていたようです。
今は兄弟で生活保護を受ける生活
――お二人とも今は生活保護を受けているわけですね。
純 同じ時期に生活保護を申請しました。父が亡くなった時に、遺産が3000万円あってそれを1500万円ずつ二人で分けたのですが、そのお金はあっという間になくなりました。
――なぜあっという間になくなったの?
純 そういうものなんですよ(笑)。本当は二人で親の残したマンションに住んでいればよかったのでしょうが、その頃は仲が悪かったので。
――映画を観ると小さい頃から仲が良かったように描かれているけれど、実際はそうじゃなかったということ?
純 小さい頃は良かったけれど、その後仲が悪くなりました。兄が倒れてまたよりが戻ったという感じですね。この映画を観て改めてそう思いました。
――一政さんとは、『創』の執筆陣も一時親しくつきあっていましたが、途中からゴタゴタするようになった。私にもそうでしたが、突然、佐川さんから非難のファックスが送られてくるんです。でも2~3日後に謝ってきたりする。それが繰り返されました。
純 私に対しても全く同じでした。
――ああ、家族にもそうなんですか(笑)。
純 いつもそうでした。
ある時は、年末に訪ねて行って一緒にテレビで紅白歌合戦を見ていたのですが、途中で怒り出して「出ていけ!」と言われたことがありました。何が理由だったか忘れましたが、僕が紅白歌合戦でなくて裏番組の第九の演奏を観たいと言ったのかもしれません。
ささいなことで喧嘩になって、仕方なく僕は夜中に帰ったんです。ところがその翌日だったかに、一緒に使っていたぬいぐるみとか両親の残したものとかを、ぐるぐる巻きにして送ってきました。もう来るなということでしょうね。怒り出すと止まらなくなってしまうんです。後でそのことを話したら、そんなことあったっけ?と本人は忘れていましたが(笑)。
――でも今回の映画を観て、久しぶりに一政さんの姿を見て懐かしかったですね。
純 ありがとうございます。兄も篠田さんに会いたがっていると思うので、きょう話したことを言えば喜ぶと思います。
なお『創』映画特集の中身は下記を参照いただきたい。
以下の作品についてのインタビュー記事はヤフーニュース雑誌で公開している。
『新聞記者』河村光庸プロデューサーインタビュー
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190612-00010000-tsukuru-soci
『長いお別れ』中野量太監督インタビュー
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190612-00010001-tsukuru-soci&p=1
『誰がために憲法はある』井上淳一監督インタビュー
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190614-00010000-tsukuru-soci