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なぜ狩猟採集人は「匂い」の表現力が豊かなのか

石田雅彦科学ジャーナリスト
(写真:アフロ)

 人間の嗅覚はイヌやネコなどに比べ、それほど鋭敏ではないと考えられてきた。人間では匂いの一種、フェロモンを感知する鋤鼻器が退化し、視覚や聴覚も発達している。だが、自然環境での暮らしに、嗅覚は生存に欠かせないセンサーなのは確かだ。

人間の嗅覚はイヌと同じくらい

 人間の嗅覚は、イヌやマウスに遜色ないとする研究がある。米国のラトガース大学の研究者による論文(※1)によれば、人間の嗅覚の機能的な目的は他の哺乳類と異なり、これが長く誤解を生んできた理由らしい。この論文では、嗅覚に頼ることがどこか野蛮で原始的な行為という意識が19世紀の研究ですり込まれ、脳に比べて嗅球の大きさを相対的に小さいと断じたからだろうとしている。実際、人間の嗅球にあるニューロンの数は他の哺乳類と違わない。

 ただ、人間の場合、言語化して初めて認知できる傾向があり、匂いの種類をいかに多く嗅ぎ分けられたとしても、それを言語化して区別できなければ本当に認知できたとはいえない(※2)。つまり、人間の嗅覚では、匂いの名前をどれだけ多く用意できるか、表現できるかが重要ということになる。

 オランダのラドバウド大学などの研究者によるオランダ人40人(平均年齢24.3歳、男女同数)を対象にした実験(※3)では、匂いに対する反応のほとんどは言語化できなかった。嫌な匂いや臭い匂いを嗅いだとき、人間は戸惑い、どんな名前をつけたらいいのかわからなくなるようだ。一方、いい匂い、好きな香りは比較的容易に具体的なイメージと結びつけることができる。

 結局、匂いに対する人間の感覚は語彙力の違いに結びつけられることになりそうだが、我々の嗅球の細胞は生まれてからの経験によって成長するようだ。米国のテキサス州にあるベイラー医科大学の研究者によれば。人間の嗅覚は他の哺乳類と同様、感情、認知、記憶といった経験と強く結びつき、他の感覚器と異なり、生涯にわたって柔軟に発達し続けるらしい(※4)。

環境により匂いの語彙が変わる

 では、人間は生活環境により、匂いに対する語彙力は増えるのだろうか。オランダのラドバウド大学などの研究者が、マレーシアの農耕文化の部族と狩猟採集文化の部族を比べた研究(※5)によれば、狩猟採集社会の人たちのほうが匂いに関する言葉を約5倍多くもっていたという。

 この2つの部族は、マレー半島の近い地域に住み、使う言葉(セマン語族)も似通っている。農耕部族はSemelai族、狩猟採集部族はSemaq Beri族といい、研究者は2つの部族で匂いと色の名前をどれだけ持っているか調べた。セマン語族はもともと狩猟採集が主だったが、その一部が現在ではSemelai族のように焼畑移動農業に移行している。

 その結果、狩猟採集文化の部族のほうが、特に悪臭に関する語彙が豊富で、色の名前との共通性を示した。また、熱帯雨林という樹冠(キャノピー)が頭上をおおい、日差しが地上に届かない環境、豊かな生物の多様性(植物のラン850種以上、コウモリ83種、シロアリ約1200種、チョウ約1000種)などを背景にして、匂いの語彙が多くなったのではないかと考えられる。

 最初は狩猟採集をしていたであろうSemelai族で匂いの語彙が少なくなっていることは、生存への必要に応じ、言葉の多寡が変化することを示唆している。逆に、焼畑移動農業の開けた日が差す環境で暮らすことで、Semelai族で色の語彙が増えたともいえる。

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農耕部族Semelai族と狩猟採集部族Semaq Beri族の色と匂い(odor)の符号化(Corability、シンプソン指数)の違い。色の語彙はSemaq Beri族で低く、匂いで高いことがわかる。また匂いの抽象的な概念も多い。Via:Asifa Majid, et al., "Hunter-Gatherer Olfaction Is Special." Current Biology, 2018

 また、Semaq Beri族では近親相姦を避けるため、個々人が持つ匂いを重視し、他人の匂いと混じり合うことを嫌う。一方、Semelai族のほうにはこうした考えはない。ごく近い地域に暮らす同じ語族の2つの集団でも、風俗と生活手段、環境により、匂いに対する語彙や考え方が大きく異なることがわかる。

 ワインの香りを表現する際、閉じているとか、開いているとか、腐葉土のようとか、ネコのオシッコのようとかいう。このように何かにたとえなければならないわけで、我々はあまり匂いに名前をつけてこなかったことがわかる。

 おそらく、これは嗅覚の可塑性によるものだろう。育ってきた環境や食べてきた食事、様々な体験は個々人で異なり、そうした感情や記憶と匂いが結びついて我々の嗅覚ができているからだ。ある人はバラのような匂いといい、ある人はネコのオシッコという。

 人間の嗅覚はイヌと同じくらい鋭敏とはいえ、匂いというのはなかなか難しい感覚なのだろう。

※1:John P. McGann, "Poor human olfaction is a 19th-century myth." Science, Vol.356, No.597, 2017

※2:Jennifer Pomp, et al., "Lexical olfaction recruits olfactory orbitofrontal cortex in metaphorical and literal contexts." Brain and Language, Vol.179, 11-21, 2018

※3:John L. A. Huisman, et al., "Psycholinguistic variables matter in odor naming." Memory & Cognition, doi.org/10.3758/s13421-017-0785-1, 2018

※4:Elizabeth Hanson, et al., "Sensory experience shapes the integration of adult-born neurons into the olfactory bulb." Journal of Nature and Science, Vol.3(8), 2017

※5:Asifa Majid, et al., "Hunter-Gatherer Olfaction Is Special." Current Biology, Vol.28, Issue3, 409-413, 2018

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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