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【先取り「どうする家康」】松平広忠が我が子を人質として今川氏に送った、苦渋の決断の裏事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康(竹千代)が人質になる回想シーンがあった。今回は松平広忠が我が子を人質として今川氏に送った決断について、詳しく解説することにしたい。

 東三河に基盤を置いた松平広忠は、隣国の尾張の織田信秀、駿河、遠江の今川義元の脅威にさらされていた。広忠は今川氏に与したので、絶えず義元の意向に注意を払う必要があった。義元の考え一つによっては、松平氏は滅びかねなかったからだ。

 天文10年(1541)、広忠は於大の方(水野忠政の娘)と結婚すると、その翌年12月には竹千代(以下、家康で統一)が誕生した。しかし、広忠の喜びもつかの間のことで、過酷な運命が待ち構えていた。

 天文12年(1543)、広忠の叔父・信孝が松平家臣団から排斥され、信秀に与することになった。さらに、同年7月に水野忠政(於大の方の父)が亡くなった。ところが、あとを継いだ子の信元は、敵の信秀に味方したのである。

 広忠は今川氏に味方していたので、2人の離反は大きな痛手となった。特に、妻の実家が寝返ったので、今川氏へ配慮せざるを得なくなった。広忠は於大の方と離縁して、水野家と関係を断つという、苦渋の決断に至ったのだ。

 天文16年(1547)、信秀が安祥城(愛知県安城市)に攻め込み、広忠が籠る岡崎城(同岡崎市)に迫るという危機を迎えた。加えて、松平氏の一族や家臣のなかには、織田方に寝返る者もあらわれた。広忠は窮地に陥った。

 広忠が織田氏に負けないためには、さらに今川氏と強固な関係を築く必要があった。そこで、広忠は家康を人質として、今川氏に送ることを決断したのだ。人質を送ることは、同盟関係を強固にする証だった。

 天文16年(1547)8月、家康は18名のお供とともに駿府に向かったが、田原城(愛知県田原市)の城主の戸田康光が裏切り、家康は織田方に送られた。信秀は人質を楯にし、広忠に離反するよう説得したが、広忠は拒否し、徹底抗戦する構えを見せた。

 ドラマの中で人質になった家康は、信秀に殺されかけたが、信長に助けられていた。しかし、信長は家康を自分の家来のごとく扱い、見ようによってはイジメ抜いていた。

 普通に考えると、織田氏にとって、家康は取り引きの道具となる貴重な存在なので、大切に扱われたと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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