明智光秀ゆかりの地へ(その5) 光秀首塚と明智門へ
大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ佳境に差しかかてきた。そのゆかりの地を歩く企画の中で、アクセスしやすい場所のひとつに「光秀首塚」がある。最寄り駅は地下鉄東西線の東山駅1番出口。地上に上がるとすぐに白川という川が見える。川の上流では京都の枯山水庭園にはかかせない白川砂がとれる川で、100メートルほど下ると「餅寅」という和菓子店があり、それを目印に手前の路地を入ると首塚がひっそりと佇んでいる。
光秀の家臣であった溝尾庄兵衛が、知恩院まで主君の首を運んできたが、ここで夜が明けたため、人目につくのを恐れて埋めたとも伝わる。お店では「光秀饅頭」を名物として販売しており、この店が首塚を守り伝えてきた。
そこから北側に東西に延びていたのが「旧東海道」であり、現在も一部が青蓮院の北側に沿って東へ延びている。首塚からこの旧東海道に入って東へ歩くと北側に道沿いに鳥居が現れる。こちらの旧社名は、「感神院新宮」(かんじんいんしんぐう)、粟田天王宮と称されていたが、明治になり「粟田神社」と改称された。この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝してこちらに参拝したため、何時しか旅立ち守護の神として崇敬を集めるようになった。境内からは京都市内が一望できるので立ち寄って参拝しておきたい。
神社からさらに東へ進むと道は極端に細くなるため、三条通に合流して蹴上の交差点へ向かう。その東側には琵琶湖疏水の建造物のひとつである「インクライン」(傾斜鉄道)が残されており、その下を通る「ねじりまんぽ」と呼ばれる独特の工法でつくったトンネルをくぐると、「明智門」がある金地院にたどり着く。
金地院は応永年間(1394~1428)に足利義持の帰依をうけた大業徳基(だいごうとくき)が洛北の鷹峯に創建したのが起こりで、慶長10(1605)年には徳川家康の側近として活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)によって再興され、現在地に移された。寛永年間に伏見城の一部を徳川家光より拝領して大改築が進められ、寛永5(1628)年には東照宮も建立されている。
金地院の最大の見所は庭園であるが、今回はまずこの散策の目的である明智門からスタート。こちらは明智光秀の寄進によって大徳寺に建立された門で、明治に入って金地院の唐門が豊国神社へ移築されたことに従い、大徳寺からこちらに移されたという経緯になる。かつてあった唐門は、元々伏見城から移築された雄大なものであったため、それよりも簡素であるものの、周囲の空気を引き締めるかのような力強さも持ち合わせおり、まさに禅寺に相応しい雰囲気をまとっている。
この門の潜ると左に回って東照宮を参拝し、開山堂にお参りすると、特別名勝に指定された枯山水庭園が広がる。金地院崇伝が、上洛する徳川家光の為に作らせたとされ、小堀遠州が作庭した記録が残っていることからも、貴重な庭園である。基本構造は、中央に三尊石、左右に大きな鶴島・亀島が配され、背後の東照宮が祀られていることから、中央に大きな拝石も据えられている。奥の刈り込みが深山幽谷を表し、奥行きも豊かな庭園となっている。「鶴亀の庭」と称されるこの名庭を眺めながら、信仰心も深かったとされる光秀が描いた夢や、無念さに想いをはせてみよう。