【戦国こぼれ話】これは想定外だった! 家臣らの支持が得られず悲惨な最期を迎えた戦国武将4選
10月31日に衆議院選挙が行われ、十分な支持を得られず落選した候補者が大勢いた。戦国時代にも家臣らからの支持が得られず、命を落とした戦国武将がいた。代表的な4人を取り上げることにしよう。
■陶晴賢に殺された大内義隆
天文20年(1551)9月、周防などを支配していた大内義隆は、長門国大寧寺(山口県長門市)で家臣の陶晴賢に討たれた。これにより、鎌倉時代以来の名門・大内氏は、事実上滅亡した。
当時、大内氏は周防・長門を中心にして山陽・山陰地方に勢力基盤を置き、九州北部にも威勢を伸長しつつあった。
しかし、天文12年(1543)5月、義隆は出雲尼子氏に惨敗し、同時に子を亡くしたこともあり、家運が傾き始めた。
以降、義隆は家臣からの求心性を徐々に失い、晴賢らと対立するようになった。義隆が新参の相良武任らを重用したことも、晴賢らの不満の種だった。つまり、義隆は家中統制を十分になしえなかったのだ。
いったん家臣からの信頼を失った大名は、凋落するのも早い。義隆は尼子氏に敗れたとき、覇気を失っていた。
晴賢は信頼に足りえなかったので義隆を討ち、これに成り代わろうとしたのだろう。なお、義隆が文治に耽っていたのが原因というのは、後世の逸話にすぎないと思う。
■身内に裏切られた朝倉義景
天正元年(1573)9月、越前をしていた朝倉義景は、織田信長の軍勢に敗北を喫し、越前国六坊賢松寺(福井県大野市)で自害した。その背景には、一族の裏切りもあった。
織田軍が越前国に攻め込んでくると、朝倉氏の家臣は雪崩を打ったように義景を裏切った。義景は本拠の一乗谷(福井市)に逃げ込むと、従弟の景鏡の勧めで大野郡に退いて再起しようとした。
しかし、景鏡は義景らの籠る六坊賢松寺を攻囲すると、自害に追い込んだ。戦後、景鏡は義景の首を信長に差し出し、許されたうえに本領を安堵されたのである。
当時の戦国武将は忠誠心が薄く打算的だったので、退潮になった当主を助けようとは思わなかっただろう。景鏡は義景を裏切って、我が身のことを考えたのである。
■逃亡先で家臣から追い払われた武田勝頼
天正10年(1582)3月、甲斐などを支配していた武田勝頼は、織田軍に攻められた天目山下の田野(山梨県甲州市)で一族とともに自害した。その背景には、親族や家臣の裏切りがあった。
織田軍が甲斐に攻め込んで来ると、親族衆の木曽義昌、穴山信君らが次々と勝頼を裏切った。むろん、勝頼の不利を悟ったからだ。
そこで、勝頼は家臣の小山田信茂を頼り、岩殿城(山梨県大月市)を目指したが、すでに信茂は織田方に投降していた。信茂は助けを求める勝頼一行に対して、鉄砲を放って追い払ったという。
こちらのケースも家臣らが当主を見限った例で、家臣が当主と運命を共にするという忠誠心を示さなかった。特に、親族であっても、まったく頼りにならなかったケースになろう。
■信頼できる部下に裏切られた織田信長
天正10年(1582)6月、天下統一を目指していた織田信長は、明智光秀に宿所の本能寺を急襲され自害した。これまで信長は、荒木村重、波多野秀治らに裏切られては返り討ちにしたが、今回はそうはいかなかった。
そもそも光秀は信長に重用されていた。二次史料などには、光秀が信長を恨んだ理由(徳川家康のもてなしに失敗して饗応役を罷免されたとか)がいろいろと書かれているが、おおむね史実とはみなし難い。
いまだに光秀が謀反を起こした理由については、納得できる明快な答えが見つかっていない。これを言ったらおしまいだが、「本人に聞かないとわからない」ということになろうか。
とはいえ、当日の信長はわずかな従者しか連れずに本能寺に宿泊したので、光秀が裏切るとは全く思わなかったのは事実とみなしてよいだろう。信頼できる部下であっても、裏切りがあるというパターンである。
■まとめ
戦国武将は家臣や民衆から慕われ、優れた政策を実行することで求心力を保ちえた。すなわち、失政はそのまま没落を意味する。
それは、現代政治でも変わらないように思えるが・・・。当選した国会議員には、国民から見放されないようにがんばってほしいものだ。