伏見城で西軍と戦い、華々しく散った鳥居元忠。その経緯を読み解く
大河ドラマ「どうする家康」では、西軍の諸将が大挙して伏見城を攻撃したので、寡兵の鳥居元忠は無念の最期を遂げた。その経緯についてはあまり知られていないので、詳しく取り上げることにしよう。
「内府ちかひの条々」が発せられて2日後の慶長5年(1600)7月19日、西軍の宇喜多秀家らの軍勢は、徳川方の鳥居元忠が籠る伏見城を包囲した。秀家が総大将を務め、その軍勢は約4万といわれる大軍だった。
西軍に与して出陣したのは、小早川秀秋、毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継ら錚々たる大名たちである。
家康が伏見城の守備を任せたのは、重臣の鳥居元忠である。元忠は家康が今川氏の人質の時代だった頃から配下として仕えており、下総矢作(千葉県香取市)に4万石を領していた。
当時、伏見城を守備していた軍勢は、たった1800に過ぎなかった。家康が会津征討に多くの軍勢を引き連れたからである。元忠がはるかに不利なのは、誰の目にも明らかだった(「浅野家文書」)。
開戦から4日後の23日、西軍の軍勢に毛利氏の大軍が合流し、伏見城の落城は確定的となった。西軍は大軍勢で伏見城を攻囲すると、築山(付城)を築いた。そして、西軍は大筒や石火矢(近世初期に西洋から伝来した大砲)を伏見城に激しく撃ち込んだので(「真田家文書」)、西軍が圧倒的に有利なまま戦いは進んだ。
普通に考えると、伏見城を数日で落とすことができるはずだったが、籠城戦は予想以上に長期化した。そこで、西軍の長束正家は伏見城内の甲賀武士(滋賀県甲賀市に本拠を置いた武士)たちに宛てて、矢文を放ったという。
矢文の内容は、①甲賀に残した妻子をことごとく磔にすること、②内応して伏見城内に火を放てば妻子の命を助け、恩賞を与えることであり、甲賀武士に西軍に従うことを促す内容だった。
結局、甲賀武士たちは、元忠を裏切るという苦渋の決断をし、伏見城内に放火した。その直後、攻囲していた西軍の大軍が一気に城内になだれ込んだのである。
籠城していた徳川方の兵は勇猛果敢に応戦したものの、8月1日に伏見城は落城した。城将の元忠は、紀伊雑賀衆の鈴木重朝(孫一、孫市とも)に討ち取られた(「真田家文書」)。伏見城内では、800余の徳川方の城兵が枕を並べて討ち死にしたという。
8月5日、大老の輝元は秀家と連署して、鍋島直茂と毛利勝永の軍功を賞した(『鍋島直茂考譜』)。直茂と勝永の2人は秀頼から恩賞として、金子20枚、知行3000石が給与された。こうして西軍は伏見城を落とした勢いに乗り、家康と対決すべく、進路を東にとったのである。
ところで、伏見城の落城にまつわるエピソードについては、二次史料に書かれたことなので検討の余地がある。とはいえ、西軍が圧倒的な兵力差で伏見城が落城したのは自明のことで、もはやいうまでもないだろう。
主要参考文献
渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)