予想さえしなかった滝川一益の大敗北。再び窮地に陥った羽柴秀吉
今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の攻防とともに、和睦交渉が進められていた。その前、秀吉は竹ヶ鼻城を水攻めにして落としたので、その経緯などについて触れておこう。
天正12年(1584)6月10日、竹ヶ鼻城は開城し、秀吉に引き渡された。秀吉は有利になったかに思えたが、そうは簡単にことは進まなかった。
6月16日、秀吉方に与していた滝川一益は、尾張の蟹江(愛知県蟹江町)、下島(下市場。同上)、前田(名古屋市中川区)の諸城を調略により攻略し、蟹江城に入った(『家忠日記』)。信雄の配下の前田城主・前田種利は、一益の猛攻に耐えかねて軍門に降り、そのまま一益に従ったのである。
しかし、一益の状況は厳しかった。6月18日、家康は蟹江城の外構を放火し、落城が近いと吉村氏に報告した(「吉村文書」)。翌日に状況を記した『家忠日記』によると、18日には下市場城が攻め落とされたと書かれている。
また、信雄は大舟に乗って、秀吉方の九鬼氏の舟を取り、敵兵も討ち取ったという。そして、家康は蟹江城に向かった。家康と信雄は、反転攻勢に出ていたのだ。
6月20日、家康は19日までに討ち取った敵兵の首120余を小牧城に送り届けた。そして、松平家忠は楽田城に向かい、青塚に火を放ったという(『家忠日記』)。
翌6月21日以降、家康は諸将に書状を送り、蟹江城の落城が近いことを報告した(「市田家文書」)。6月23日には、種利が籠る前田城を受け取ったので、戦いが家康方に有利だったのは明らかだった(『家忠日記』)。
7月3日、一益は前田種利に腹を切らせると、蟹江城を家康方に渡し、そのまま舟で逃亡した(『家忠日記』)。種利には「別心人」と書かれているとおり(『家忠日記』)、もとは信雄に仕えていたが、一益の配下になった経緯がある。
一益は信雄を裏切った種利を切腹させ、城を明け渡すことで命を長らえたのだ。これは一益の大失態であるとともに、秀吉の激しい怒りを買った。
戦後、秀吉は一益の子の一忠を改易としたが、弟の一時は許した(『兼見卿記』)。一益は1万5000石を知行していたが、うち3000石は安堵され、残りの12000石が一時に与えられた(『寛永諸家系図伝』所収文書)。
一連の大失態により、一益の没落は決定的になった。結局、一益は2年後の天正14年(1586)に亡くなった。一忠は没年すら不明である。一時は以後も秀吉に仕え、慶長8年(1603)に没した。
その間の6月27日、越後の上杉景勝は秀吉に人質を差し出し、ようやく同盟関係を結んだ(「本間美術館所蔵文書」)。景勝が秀吉と同盟を結んだのは、対立する北条氏、そして北関東を含む政治情勢による影響だったといえる。
この同盟の締結により、秀吉方は優勢になった感があるが、その後も戦いは膠着状態が続いたのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)