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一度は徳川家康を裏切ったが、のちに帰参した3人の家臣とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 近年の企業では、いったん退職した社員の再入社を認める制度があるという。徳川家康は一度裏切ったことがある家臣であっても、のちに帰参を許したケースがあるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎本多正信

 本多正信は、若い頃から徳川家康に仕えた譜代の家臣だった。しかし、永禄6年(1563)に三河の一向一揆が勃発すると、弟の正重とともに一揆勢に味方した。一揆勢が敗北すると、正信は加賀に逃亡したといわれているが、以後の動向は詳しくわかっていない。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、家康は武田氏の旧領をめぐって、北条氏らと戦った。その頃、正信は家康から帰参を許され、甲斐、信濃の支配を任された。以後も正信は家康に従い、腹心の部下として行動をともにしたのである。

◎渡辺守綱

 渡辺守綱は「槍半蔵」と恐れられた槍の名手で、若い頃から家康に従った譜代の家臣である。三河の一向一揆が勃発すると、熱心な一向宗の門徒だった守綱は、家康を裏切り、一揆勢に加わった。しかし、一揆勢は家康勢と戦い、無残な敗北を喫したのである。

 戦後、守綱は家康から帰参することを許された。以後の守綱は、家康の命に従って、各地を転戦したのである。晩年は尾張藩主の徳川義直(家康の子)の付家老に任じられ、大坂冬の陣・夏の陣にも出陣した。死後、守綱は「徳川十六神将」の1人に数えられたのである。

◎夏目吉信

 夏目吉信もまた、松平家(徳川家)に父祖の代から仕える譜代の家臣だった。三河の一向一揆が勃発すると、吉信は乙部八兵衛らとともに一揆勢に加わった。八兵衛は籠った砦が落ちると思い、家康方の松平伊忠と密かに通じた。案の定、砦が落ちると、吉信は伊忠に捕縛されたのである。

 しかし、八兵衛は伊忠に吉信の助命を嘆願したので、吉信は伊忠の配下に加わった。その後、吉信は家康から許されて、帰参したのである。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いにおいて、吉信は「自分が家康だ」と言って家康を逃がし、武田勢に討たれたといわれている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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