石川啄木の「東海の小島の磯の白砂」
明治43年(1910年)12月1日、東雲堂書店より「一握の砂(いちあくのすな)」が刊行されています。石川啄木の第一歌集です。
「一握の砂」には551首が収められていますが、巻頭歌が「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」です。
一部が書名になった「頬につたう なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず」よりも先に掲載された「東海の…」の歌は、石川啄木の自信作であり、代表作といえます。
石川啄木の「東海」は太平洋?
石川啄木は、明治45年(1912年)3月27日に東京市小石川区で肺結核のため26歳の生涯を終えていますが、その墓は、生前の石川啄木の希望の通り、函館に作られています。大正2年(1913年)に函館市の函館山の麓の立待岬に作られた墓には、「東海の…」という歌が刻まれています。
石川啄木が「東海の…」という歌を読んだ場所は、函館市の大森浜といわれています。ここは東側に青く広がる太平洋が望める白砂がある場所ですので、歌にある「東海」は太平洋いうことになります。しかし、小島はありませんので決め手にかけ、心の中の想像であるなど、大森浜ではないという説も数多くあります。
ただ、石川啄木にとって、132日しか滞在していない函館は忘れがたい土地であったことは確かです。
函館で再出発をはかる
貧困のため一家離散となった石川啄木が妹光子をつれ、「陸奥丸(890トン)」で北海道に渡ったのは、明治40年5月5日のことです。
雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』に集まる文芸グループ「苜蓿社(はくしゅくしゃ)」の人たちの助けで函館で再起をはかるべく乗った日の航海記録は表のようになっています。
海峡に入る平舘沖では風がやや強かったこと、気温も15度以下で肌寒かったこと雨がときおり降ってもおかしくない天気であったことなど、啄木の日誌の記述を裏付けています。
石川啄木の日誌は、その時のできごとを正確に表現していることの、間接的な証明となっています。
石川啄木は、当初は苜蓿社を住まいとしています。明治40年9月6日に記されたという「函館の夏」によると、「苜蓿社には、控訴院の松岡政之助君と測候所の大井正枝君が同宿していた」と書かれていますが、ここでいう測候所は、後の函館地方気象台のことです。
石川啄木は、5月11日からは函館商業会議所に臨時雇いの職を、6月11日には函館区立弥生尋常小学校の代用教員の職を得て、8月18日には代用教員のまま函館日日新聞社の遊軍記者となって家族を呼び寄せています。
しかし、8月25日(日)10時半に発生した函館大火は、函館市の3分の2を焼き、弥生尋常小学校、函館日日新聞社ともに焼失しています。
このため、函館滞在132日目の9月13日には新しい職を求め、札幌に向かわざるをえなくなっています。その後、小樽、東京と転居し、函館に居をかまえることはないのですが、名作「一握の砂」は、短くとも多くの知人を得た激動の函館での生活が下地といわれています。
今も残されている「陸奥丸」の観測記録
本州と北海道を結ぶ青函航路は、明治43年(1910年)に逓信省鉄道局が2隻の大型船を投入して青函連絡線を開設するまでは、日本郵船会社が定期航路を開設していました。石川啄木が乗った「陸奥丸」は、明治10年にイギリスで作られた船です。
日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通のコレクション(神戸コレクション)には、「陸奥丸」の観測も含まれています。「陸奥丸」は、明治41年3月23日に北海道恵山岬灯台付近で「秀吉丸(700トン) 」と衝突・沈没し、乗員・乗客200名以上が行方不明となるのですが、その少し前までの海上気象観測10年分が残されています。
神戸コレクションには、世界をまたに活動した船だけでなく、「陸奥丸」のように、国内を中心に活動した船が多く含まれています。
このため、海域別のデータ数でみると、日本周辺が圧倒的に多く、神戸コレクションを用いた日本近海の地球温暖化などの研究では、他の海域の研究より、データ数が多い分だけ精度が良いと考えられています。
表の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂書店。