【光る君へ】なかなか悩ましかった、円融天皇をめぐる複雑な女性関係と政治力学
大河ドラマ「光る君へ」で、重要な役割を果たしているのが円融天皇である。天皇は最高権力者だったが、一人で何かもできるわけではなく、公家の力が必要だった。
天皇を支える公家は純粋な気持ちで政治に携わるわけではなく、上昇志向が強かった。公家が出世するには家格にも左右されたが、娘を天皇に入内させるのが一番の近道だった。円融天皇もその影響を強く受けたので、その辺りを確認することにしよう。
円融天皇は村上天皇の第五皇子で、天徳3年(959)に誕生した。康保4年(967)9月に9歳で皇太子になると、安和2年(969)8月に冷泉天皇(村上天皇の第二皇子)の譲位により、即位して新天皇になった。円融天皇が元服したのは、天禄3年(972)1月のことである。14歳だった。
同年、摂政の藤原伊尹(師輔の子で兼家の兄)が亡くなり、その弟の兼通が関白を務めることになった。しかし、兼通は弟の兼家と折り合いが悪く、2人は熾烈な昇進競争を行っていた。貞元2年(977)11月、兼通は亡くなったが、死の間際に藤原頼忠を後継の関白に指名し、兼家に譲らなかった。
円融天皇が元服した翌年の天禄4年(973)2月、兼通の娘の媓子が入内した。媓子は天暦元年(947)の生まれなので、円融天皇よりも12歳も年上だった。
天皇の元服と同時に入内する女性は副臥(そいぶし)といい、妃になる有力な候補だった。多くは天皇よりも年長で、最初は話し相手、遊び相手くらいである。しかし、後宮に娘を入内させようとする公家らの影響が及ぶのは、むしろ当然のことだった。
兼通死後の天元元年(978)8月、兼家の娘の詮子が入内した。詮子は応和2年(962)の生まれなので、円融天皇よりも3歳年下だった。
同年には、頼忠の娘の遵子も入内した。遵子は天徳元年(957)の生まれなので、円融天皇よりも2歳年上だった。こうして兼家と頼忠は娘を入内させることに成功したが、翌天元2年(979)6月に媓子が亡くなった。
天元3年(980)6月、詮子はのちの一条天皇を産んだ。このことは、兼家のその後の政治人生を左右する朗報だった。当時、天皇の外祖父が摂政や関白の座に就き、権勢を振るうのが当たり前だった。遵子には子が誕生しなかったのだから、なおさら権力の座は近くなったのである。
円融天皇がキサキを迎えるに際しては、当然、家柄も重視されただろうし、自由恋愛があり得ない時代でもあった。政治力学によって、誰をキサキに迎えるかが決まったのである。激しい公家同士の権力争いに左右されたのだろうが、互いの恋愛感情というのは、自然に生まれたに違いない。そう信じたいものである。
参考文献一覧
朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1996年)
服藤早苗『平安朝 女性のライフサイクル』(吉川弘文館、1998年)
倉本一宏『藤原氏 ―権力中枢の一族』(中公新書、2017年)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA、2023年)