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【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲の入京と平家の都落ち。その裏事情を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家に勝利し、入京を果たした。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、木曽義仲の入京と平家の都落ちが描かれた。そのあたりの裏事情について、その理由を深く掘り下げてみよう。

■木曽義仲の快進撃

 寿永2年(1183)5月、倶利伽羅峠の戦いで平家軍に大勝利した木曽義仲は、入洛を目指して先を急いだ。勝利で勢いを得た義仲軍は、6月に叔父の源行家の軍勢と加賀国で合流し、平家を追撃した。

 7月になると、義仲は北陸道のルートから近江国へ入り、勢多(瀬田:滋賀県大津市)を経て、延暦寺と通じた。延暦寺は反平家の急先鋒だったが、義仲に味方するのか否かは不透明だった。

 それゆえ、義仲の交渉は決して穏やかではなかった。義仲は延暦寺に対し、平家を支援するならば、焼き討ちにすると脅かした。これにより延暦寺は、義仲に味方することになった。

 その間、義仲以外の源氏の諸勢力も、続々と京都を目指した。叔父の行家は伊賀国、大和国を経て、京都に入ろうとした。多田行綱は摂津国から、源義康は丹波国から、安田義定は遠江国から、山本義経は近江国から、それぞれ京都へと向かった。こうして、平家の包囲網は勢いを増したのである。

 平家は四面楚歌の状態になったものの、伊賀、近江方面に派兵し、最後の抵抗を試みた。しかし、もはや平家には義仲らの軍勢を食い止める力は、まったく残っていなかった。これまでの敗戦で兵を失っただけなく、生き残った者たちも去っていたのだろう。

■平家の都落ち

 ここまでの平家は、義仲との戦いに敗れ、その後は追撃されるありさまで、もはや対抗しうるだけの力も自信も喪失していた。そこで、平宗盛はいったん勢力基盤のある西国に落ち、態勢を立て直してから、再び京都を奪還しようと考えた。

 その際、もっとも重要なことは、後白河法皇と安徳天皇を確実に帯同することだった。というのも、天皇(法皇)のいるほうが正統になったので、朝敵の誹りを逃れることができたからだ。

 しかし、後白河は平家方のこの動きを事前に察知し、その難から逃れるため、延暦寺へと逃亡した。後白河は平家が負けると予想し、運命を共にするのを避けようとしたのである。後白河が逃れたことに対して、宗盛は激しく動揺したといわれている。

 宗盛は後白河こそ帯同できなかったが、六波羅邸を焼き払うと、安徳天皇の身柄を確保し、そのまま平家の一門とともに西国へと落ち延びたのである。同年7月25日のことだった。義仲らが入京したのは、3日後の7月28日である。

 このとき、平頼盛だけは京都に残った。頼盛は山科方面に出陣していたが、半ば置き去りにされた形で都に止まらざるを得なかったという。 

■むすび

 平家が目指したのは、太宰府(福岡県太宰府市)だったといわれている。九州には平家の勢力が盤踞しており、彼らの助けを借りて、再起を期そうと考えたのである。

 ところが、事態は平家の予想を超える方向で動いていた。義仲、行家が入京すると、ただちに後白河は平家追討の院宣を与えた。そして、貢献度については、公家の議定により第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家と評価した。

 これまで源氏は賊軍との汚名を着せられた節があったが、ここにきて平家と立場が変わり、正式に官軍として認定されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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