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マラドーナから始まった「テコンドーサッカー」 韓国からも惜しむ声相次ぐ

(写真:ロイター/アフロ)

25日に全世界に衝撃を与えたディエゴ・マラドーナ氏の訃報。

当然のごとく、韓国でも連日大きく報じられている。

「”アディオス ディエゴ”…マラドーナの棺に100万人の波」(京郷新聞)

「”永遠の10番”マラドーナ他界…サッカー界からの哀悼相次ぐ」(ノーカットニュース)

「”神のもと”に旅立った”神の手”マラドーナ…サッカーの星、散る」(TV朝鮮)

マラドーナと韓国の間には、1986年のメキシコW杯での対戦以降、1995年のボカ・ジュニアーズとの対戦、2010年の南アW杯での対戦そして2017年のU-20W杯ファイナルドローでの縁などがある。

86年の衝撃 猛烈マンマーカーが「ふともも蹴り」

マラドーナと韓国との最初の出会いは、1986年6月2日のメキシコW杯グループリーグ初戦だった。

日本を最終予選で降し、1954年スイス大会以来の32年ぶりの本大会出場を決めた韓国。イタリア、ブルガリア、そしてアルゼンチンとグループAで同組になった。

メキシコシティーのエスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオで、6万人の観衆を前に行われた試合。3-1で勝利したアルゼンチンは3ゴール全てでマラドーナが起点となり(バルダーノ2、ルジェリ1)、韓国は0-3からパク・チャンソンが右足でミドルシュートを決めた。これは韓国サッカー史上で初めてのW杯本選でのゴールだった。

韓国にとっては「世界との遭遇=マラドーナ」だったのだ。

なかでも、当時密着マークについたホ・ジョンムの存在がクローズアップされた。

大会時の所属クラブは現代(HYUNDAI)だったが、1980年から1983年までオランダのPSVアイントホーフェンに所属。現在でいうところのボランチで計77試合に出場、11ゴールを記録した実績を持っている。在籍当時には、アヤックスにいたヨハン・クライフのマークにもついたことがあった。また、韓国内では当時ドイツで活躍していたチャ・ボングンに強いライバル意識を持っていた存在としても知られる。

韓国で後に語り継がれるのが、冒頭の写真のシーンだ。ドリブルし、バイタルエリアに侵入しようとするマラドーナに対して、マンマークを離してしまったホは慌てたように駆け寄る。その後、思いっきり太ももを蹴った。

このプレーを海外メディアがこう評した。

「テコンドーサッカー(テコンサッカー、とも)」

今回のマラドーナの死去に際し、当時このファウルのシーンの映像を「KBS」が振り返った。

当時の韓国の試合中継時のコメントがなんと…

「故意のファールではないのですが」

だったのだ。

このシーンに、ツッコミのニュアンスで字幕がつけられた。

「韓国があまりに好きすぎて過度に保護している」

そうでもしなければマラドーナは止められない。後にマラドーナはこの頃の韓国を「技術は少々低かった」と振り返った。韓国としては今よりもはるかに世界の情報が少なく、経験も少ない時代の最初の”壁”だったのだ。

ボカでの”復帰”の地が韓国だった

マラドーナにとっての初の韓国訪問は1995年だった。

9月30日にボカ・ジュニアーズの一員として韓国代表と対戦した。

2002年W杯の誘致をPRするために招待されての試合。マラドーナにとっては、94年アメリカW杯での禁止薬物反応による選手資格停止が解けて以降、初の試合になった。再スタートの場が韓国だったのだ。

韓国メディアに「多額の対戦フィーが支払われた」と報じられた試合では、当時の金泳三大統領がピッチに降りて挨拶するなど、丁重に迎えられた。

試合でのマラドーナは、自分を撮るために撮影エリアにぎゅうぎゅう詰めのフォトグラファーの真横からコーナーキックを蹴り、先制点をアシスト。

試合は終了直前の決勝ゴールによりボカが2-1で勝利した。

試合後、記者会見ではこんなやりとりが。

―韓日間の2002年W杯誘致戦が熱くなっている。どちらの国がW杯を誘致するのがよいと思うか。

「サッカーの伝統から考えても、韓国が誘致することが正しいと思っている。しかし日本も経済大国としてFIFAに強力な影響力を行使している。この点は看過してはならない。FIFAは公正な決定を下さなければならない」

当時はペレは日本支持、マラドーナは韓国という構図もあった。いっぽうこの場では韓国メディアからこんな質問も飛んだ。

―薬物服用など、スキャンダルも多いが。

「私はスターだ。スターはスキャンダルが多くならざるを得ない。私の本『潔白』でも明らかにしたが、94年W杯での禁止薬物陽性反応は、FIFA内に存在する陰湿な勢力による陰謀だ。韓国もW杯を誘致するために黒い勢力に注意しなければならない」

(中央日報1995年9月23日の記事より引用)

2010年W杯で対戦、2017年にはU-20W杯ファイナルドローに招待される

再度の縁は、2010年にあった。南アW杯で韓国とアルゼンチンが再び同組となったのだ。

しかも1986年にピッチ上でエースとマーカーの役割を果たしたマラドーナとホ・ジョンムがそれぞれ監督として再会した。この時は対戦前からマラドーナ側が「韓国はかつてアルゼンチン相手に格闘技を仕掛けてきた」と挑発。ホは「24年も前のことから抜け出せずにいるのか?」と”応戦”した。試合はメッシにマークが集中するなか、イグアインのハットトリックもありアルゼンチンが4-1で快勝した。

2017年9月には生涯最後となった韓国への訪問機会があった。

15日に行われたU-20W杯韓国大会のファイナルドローを控え、前日の14日にスーウォンを訪れた。ここでフットサルのイベントに出場。相手の”気遣い”もありながら、ハットトリックを決めた。

さらにここでメディアから86年当時の写真(本稿冒頭と同じシーンのもの)を見せられ、こう回顧した。

「おー覚えてるよ。負傷したシーンはほぼすべて記憶しているけど、特にこの写真の場面は大きな大会だったのでよく覚えている」

「86年の大会では韓国の選手は、ボールを見ずにファウルをするために脚だけを見てプレーしていたね」

この翌日にU-20W杯のファイナルドローに出席。自らの手でアルゼンチンを、開催国韓国と同じグループとなるくじを引いた。韓国はマラドーナの母国のほか、イングランド、ギニアと同国になる「死の国」に入ったのだった…。

テコンドーサッカーにも”感謝”、マラドーナは「韓国の選手にもう一度会いたいけど…」

26日の死去のニュース後、やはり韓国では「テコンドーサッカー」の話題になった。

批判的なニュアンス、そして”イジり”も入った言葉だ。でも嬉しい。体ごと蹴っ飛ばさないと止められない。そんな存在と対戦できたことに韓国は喜んでいるのだ。

その張本人となったホ・ジョンムが、訃報を受けこうコメントした。

「マラドーナは太陽だった。一番強力な光を持っていた。訃報を聞いた時、不思議と近い存在が亡くなった感じも覚えた。彼に比べれば自分など蛍がパッと光った程度と思わされる。あれほどに強力な影響力と能力を持つサッカー人が再び現れるだろうか。そんなことを思う」

一方のマラドーナの方には余裕があった。逝去後、韓国でも彼を偲ぶニュースが多く流れる中、1995年のボカでの復帰直前にKBSがアルゼンチンに取材陣を派遣したドキュメンタリーも再び採り上げられた。

1986年当時の記憶を本人は笑顔を交えこう振り返っていた。

「韓国戦は非常に印象深い。休むまもなく我々にプレッシャーをかけてきたことを覚えている。また当時の選手たちに会いたいよ。そしてハグしたい。でも足を蹴るのは一回だけにしてほしいね」

これを報じた公営放送KBSは、追悼ニュースの末尾で思いをこう綴った。

韓国サッカーもあなたを記憶し続けます。

マラドーナは永遠です。

(了)

―その他、韓国メディアのYouTube公式アカウントにアップされるマラドーナの動画―

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。仕事ご依頼はXのDMまでお願いいたします。

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