Yahoo!ニュース

覚えてますか? 呂比須ワグナー。日本のW杯初出場の原動力だった(その2)

楊順行スポーツライター
1998年、湘南ベルマーレでのプレー(写真:山田真市/アフロ)

■呂比須さんが初めてスパイクを買ったのはプロ入り後……。単純に比較するのは無理がありますが、日本は環境に恵まれすぎている、と。

「日本の高校生は学校に通いながら、アルバイトで車を買えますからね。また、治安にしても大違いです。サンパウロFCでは、いつもはクラブのバスが送り迎えしてくれるんですが、たまたまその日は故障で、僕は恋人の車を運転して学校に行った。そこで車を降りると、いきなり5人組の男たちに囲まれて"車をよこせ!"って。全員がピストルを持っていて、僕は頭にそれを突きつけられながら車の外に出て。よく映画のシーンにあるように、足を広げて車に手をついて、"鍵をよこせ"と脅されたんです。でももうびっくりしちゃって、動転して、鍵をどこにやったかもわからなくなっちゃったんだね。

男たちは怒って、僕の頭をピストルで殴るし、蹴るし、めちゃくちゃにやられたんです。通りがかった人が"警察が来てるよ!"と大声を出してくれて助かったけど、2カ月練習できないくらいのひどいケガでした。やっと治って練習を再開しても、心のケガはなかなか治らないね。もうあんな危険な場所の学校には行きたくない、そればっかり考えて練習に集中できない。

ちょうどそのころ、日本に行かないか、という話があったんです。クラブの先輩が日産に入るとき、加茂(周監督・当時)さんから"若いフォワードを紹介してほしい"といわれたそうで、僕に声をかけてくれました。"連れて行って下さい"と、こっちから頼みましたよ。いろんなことを勉強したかったし、日本の文化や日本語にも興味があったんです。87年のことでした。もっとも最初は、日本で2、3年経験を積んで、サンパウロに帰るつもりだったんだけど。

ただ、日本が進んだ国だというのはわかってはいても、都会はともかく、田舎にはまだサムライがいると思っていたんです(笑)。チョンマゲをして、刀を差してね。まだ子どもだったから、もしいるのならサムライにも会いたいと思っていました」

■初めての日本リーグでは8得点でいきなり得点ランキング5位と、日本のサッカーにはすぐに慣れたようですね。

「食事も最初はファストフードばかりでしたが、だんだん舌に合ってきました。ただ、言葉だけはどうしようもなかったですね。いろんなところに行ってみたいと思っても、寮に戻ってこられるか不安だから、3カ月ほどは寮とグラウンドの往復ばかり。これじゃダメだと思って、毎日2時間ほど日本語の勉強をしました。一番勉強になったのは、子どもたちとの会話ですね。

寮のそばの公園で野球をやっている子どもたちがいたら、"私もお願いします"と仲間に入れてもらう。でも野球をやるのなんて初めてですから、最初はバットを逆に握ったり、打ってから三塁に走ったり……子どもたちには、"変な外国人"だったんじゃないかな(笑)。それでも彼らは、簡単な言葉でしゃべってくれるし、身振り手振りも多いし、なんとかコミュニケーションは取れる。いっしょに遊んでいるうちに、少しずつ日本語を覚えていきました」

子どもたちとの野球で日本語を覚える

「言葉に自信がついたら、休みの日にはいろんなところに行きましたよ。新宿、原宿、秋葉原……。すれ違う人と目が合ったら話しかけ、辞書を片手にこれも日本語の勉強です。そうやっているうちにアッという間に1年がたち、もうサンパウロに帰る気はなくなっていましたね。たとえばサンパウロなら、ちょっとぶつかった人がピストルを持っているかもしれないし、街を歩くのでもずっと緊張していなくちゃいけないんです。だけど日本では、新宿ならあれだけたくさんの人が動き回っているのに、みんなリラックスしているでしょう。ほとんどの人がトラブルと無縁で生活できるのは、素晴らしいと思いました」

■サッカーはどうでしたか。やはり、ブラジルと日本の差は感じました?

「まずは歴史の差が大きいと思います。たとえば、ブラジル人が日本の人ほどうまく野球をできますか? 僕が三塁に走ったみたいに、ほとんどできませんよね。また外国人は、日本人みたいにうまくハシを使えません。積み重ねてきた文化の違いのように、サッカーが生活に溶け込んでいるブラジルに日本がすぐに追いつこうとしても無理があるし、逆にブラジルのやり方をそのまま日本でやろうとしても、うまくできないのは当然でしょう。言葉で説明するのはむずかしいですけど……。

W杯には、そういうサッカー文化が根づいた国が出てくるわけですが、出場国で弱いチームはないね。日本もそう。強いと思っていいんじゃないですか。もし僕がブラジルの知り合いに日本チームを説明するとしたら、“スピードがあって、コンパクトで、監督の戦術が徹底しているチーム”と胸を張りますよ。

もちろん初めてだから、雰囲気に慣れていないところはあるでしょう。(対戦相手の)アルゼンチンに対して、萎縮するかもしれません。ディフェンシブにもなるでしょう。でも僕はね、ピッチに立ったら、勝つことしか考えませんよ。かりに相手がアルゼンチンだろうがクロアチアだろうが、サッカーは名前だけじゃ勝てません。逆に“日本はやりやすい”と相手が甘く見てくれたらチャンスですね」(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事