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夏の甲子園/私のお気に入り 第7日 作新学院・朝山広憲一塁手

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

第7日第3試合。49番目としんがり登場の作新学院が、10対6と上田西に打ち勝った。3打数1安打1打点の四番・朝山広憲一塁手は夏の優勝というDNAを持つ。

「家のリビングには、優勝メダルや旗を持って行進する父のパネルがあります。いまは寮生活でなかなか帰れませんが、中学時代までは、疲れて休みたいなと思ったときなど、励みにしました。それを見ると体を動かすエネルギーがわいてくるんです」

そう、父・憲重さんは1983年夏、優勝したPL学園の遊撃手・主将なのだ。憲重さんの影響で、幼少時から野球に親しみ、小学6年時に父が監督を務める真岡クラブで全国大会に出場。 真岡中学校時代は、真岡ボーイズのエース兼四番打者として活躍した。

作新学院では、1年春からベンチ入りすると、夏には背番号10として甲子園に出場。 3試合に救援登板し、13回3分の1を11三振で16強入りに貢献した。2年夏の甲子園でも、レフトを守ってアーチをかけ、リリーフでも登板している。そして、3回目の夏だ。投手としては故障に苦しんだが、栃木県大会では四番として6打点、2ホーマーを記録。ことに準々決勝の文星芸大付戦、延長10回に放った3ランは効果的だった。

憲重さんとの思い出を、こう話す。

「小4から中3まで、父が毎日バッティングセンターに連れて行ってくれたんです。速い球だけではなく、遅い球も打ち込みました。ふつうの会社員である父にとって、金銭的には大きな負担だったと思いますよ(笑)。そこでの打ち込みが役に立っているのは、間違いありません。父が強調するのは、バッティングにおける"間"でした。ステップしたまま打つのではなく、そこでのタメによって変化球にも対応できる……」

そういえば、憲重さんが優勝した83年夏、PLのエースは1年の桑田真澄である。このときのPLは、正捕手が負傷したため、急きょ控え捕手がマスクをかぶったが、なにぶんにも経験不足。ショートの憲重さんがサインを出し、それを受けた捕手が桑田に転送していたという。つまり、憲重さんがいなければ、83年夏から始まるKKの黄金の3年間はなかったかもしれないのだ。朝山は言う。

「中学のときには、桑田さんにも練習を見てもらいました。"投げるのも打つのも、8割の力でいいんだよ"と。実際、そのとおりに投げたら、いままでにないキレのボールを投げられたんです」

投手としての朝山も、県大会の決勝では先発としてようやくマウンドに戻った。もしかしたら……3回戦以降、桑田譲りのピッチングが見られるかもしれないぞ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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