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渡辺元智監督勇退。そこで「厳選・横浜名勝負」 その3

楊順行スポーツライター

1980年8月20日 第62回全国高校野球選手権大会 準決勝

天 理 000 000 100=1

横 浜 000 000 30x=3

降雨のなかガマン比べが続いたが、雨でゆるんだグラウンドが明暗を分けた。7回天理は横浜内野守備の乱れから適時打で1点を先制。ところが横浜もその裏、二死から敵失で出た走者に二盗の大胆な策をとった。これが成功すると、後続の単長打で3点をあげる。愛甲猛は8、9回と粘り強く天理打線を封じた。

激しい雨だった。3回の天理の攻撃前には、37分間の中断があったほどだ。

「下がゆるんだ状況で7回に内野が乱れ、1点を先制された裏の攻撃です。声が聞こえてくるんですよ、"これで終わりかな"。記憶は定かじゃありませんが、われわれが、一塁側のダグアウトだったんでしょうね。ダグアウトのわきにグラウンドへの通路があり、グラウンド状況を見ていた役員の方の声が聞こえてきたんです。そうか、もしこの回に1点取れなければコールドで終わるのかな……と思っているうちにあっさりツーアウトです。

打順は六番吉岡(浩幸)。サード前にゴロが転がりました。ダメか……ところが、田んぼのようなグラウンドに相手の三塁手が足を取られて、このボールをつかみそこねるんです。打順はここから下位です。その鳥飼(照明)のカウントはツーボールで、相手はストライクがほしいですよね。そこで一か八か、盗塁のサインを出したんです。

吉岡は、チーム一、とはいわないまでも鈍足なんです。しかも、下がゆるい。しかし、相手もまさか走ってくるとは思わないし、ストライクを放ってくるだろうから、捕手も投げにくい。雨で滑ってボールをつかみそこねてくれるかもしれない。なにより雨がすごくて、この回で点が取れなければ終わり。だけど、もうふたつ勝っているじゃないかという思いもありましたから、これは賭けでした。それにしてもあんな足の遅いのが、よくセーフになりましたよ」

吉岡が盗塁に成功し、二死二塁から鳥飼は四球で、沼沢尚に打席が回った。もともと守備力を買っての起用だから、県大会の打率は1割6分7厘にすぎない。甲子園でもここまで、2割そこそこ。渡辺が指示を与えようとベンチに呼ぶと、緊張からか、がたがた震えている。指導法を、スパルタから対話路線へ変えようとしていたころだ。渡辺はまず沼沢の胸に手を当て、震えが治まったところで「オマエは2割の打者かもしれないが、その2割をここで出してくれればいいじゃないか」と送り出した。

初球、絶対まっすぐが来る! 振る勇気を持て

そこで一言付け加えたのは、「相手は早く終わりたがっている。初球、絶対に変化球は放ってこないから、ストレートを狙っていけ。オマエが打てないのは、バットを振らないからだ。初球ストレート狙いで、打てなかったらオレの責任だから、思いきりいけ」。

「そうしたら……案の定初球のまっすぐを振り抜いて三遊間です。続く宍倉(一昭)も初球を二塁打して、3点を奪いました。結局この試合は、コールドで終わることもなく9回まで戦って3対1で勝ちましたが、ひじょうに印象にあります。というのはそれ以後も、チャンスに選手を打席に送るとき、正直"ダメかな"と思うことがあったんですよ。でもそんなときは、"3打席までダメでも、4打席目で振る勇気がほしい、結果を恐れずに振ってこい"と信頼して送り出すようにしていました。これは、2割打者だった沼沢の同点打が原点ですね」

そして雨で1日空いた決勝は、横浜打線が早稲田実・荒木大輔を攻略し、夏は初めての頂点に立った。だがこの後の横浜は、甲子園に出ても初戦負けか、せいぜい1勝という時代が続いた。渡辺自身、一時県の高野連の仕事を兼務し、肩書きは部長になったりしたが、実質一人での野球部の指導は想像以上のストレスだ。94年、同期だった小倉清一郎が部長に就任するまでは、胃潰瘍や十二指腸潰瘍に悩まされる苦しい時代が続いた。

「甲子園でなかなか勝てず、ことに夏に関しては81年に1勝したあと89年、94年と初戦敗退です。96年、北嵯峨(京都)に勝ったのが、夏に関しては15年ぶりの勝利。これは私にとって、別の意味で大きな1勝でした。というのも前年、新チームがスタートした8月に、エース候補だった丹波(慎也)が急性心不全で亡くなったんです。

その供養の意味でも、もう監督を引こう(引退しよう)と思っていたのがもう一度やる気になったのは、丹波のお母さんが"どうか慎也の分まで、がんばってください。それが供養になると思います"とおっしゃってくれたからです。丹波のトレーニングウェアをお守りにした96年のセンバツは初戦で負けてしまいましたが、夏は北嵯峨の山田(秋親、元ソフトバンクなど)君……いいピッチャーでした……から終盤3点を奪い、投げては松井光介(元ヤクルト)も1失点で完投し、私はお立ち台で思わず泣いてしまいました。年とともにね、涙腺が弱くなっている。

ただこの夏は、次の福井商戦で9回まで2点をリードしながら、松井のバント処理ミスをきっかけに一挙6失点で逆転負けでしょう。ちょうど丹波の命日で、確実に勝てていた試合で、これはショックでしたね。ほかにもたとえば94年のチームなどは、ピッチャーに矢野(英司、元横浜など)がいて、打線は斉藤(宜之、元巨人など)、紀田(彰一、元横浜など)、多村(仁、現DeNA)。優勝してもおかしくないチームが1回戦負けするのも、高校野球ですね。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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