「残業しない日本人は非国民」だった時代を思い出す

(写真:ペイレスイメージズ/アフロ)

■「君はなぜ残業をしないのか?」

「君はなぜ残業をしないのか?」

以前勤めていた職場で、私は2人の上司から呼び出され、暗い部屋のなかで言われた言葉がこれです。今も強烈に、頭に刻み込まれています。

20年ほど前のことです。

君はなぜ残業をしないの、って……。

当時、純粋に頭が混乱しました。

「君はなぜ結果を出そうとしないのか?」

「君はなぜやる気を出そうとしないのか?」

「君はなぜ困っている同僚がいたら手を貸そうとしないのか?」

……などと怒られるのならともかく、目の前で腕組みしている2人の上司は、私が残業をせず毎日定時でオフィスを後にすることに怒っていました。

今も続けていますが、私は当時、知的障がい者のボランティアサークルの代表をしており、ボランティア仲間とのミーティング、教育委員会に申請する助成金の手続き、保護者との打合せなどが頻繁にあって、平日の夜はしょっちゅう定時退社をしていたのです。

「他の同僚が定時内で仕事を終えていないのだから、君も少しは手伝ったらどうだ?」

という言い分ならわかります。しかし、当時の同僚は別々のチームで仕事をしていて、手伝いようがありませんでした。

■「残業しない日本人は非国民」だった時代

自分のチームの仕事に遅延がないのであれば、定時で帰る権利はある、というのが私の主張です。

話題となっている、TBSテレビ『わたし、定時で帰ります』の主人公、東山結衣と通じるところがあるでしょう。私は当時、定時で切り上げる主義を貫いていたのです。

上司たちに、露骨な態度で不平を漏らしていると、「口で言っても聞かないようだな」と悟ったのでしょう。次に彼らは「残業をしないと処理できない仕事量」を私に与える、という手段をとったのです。

私は愕然としました。これでは、単なる嫌がらせではないか。

同僚も、私の不満に耳を貸してくれません。残念ながら、私に東山結衣ほどの気骨もありません。

「残業しない日本人は非国民」と、白い目で見られる時代背景だったこともあり、私はその後、独特の残業文化に染まっていくことになります。生存本能と言いましょうか。残業しないと、この社会では生き残ることができない、と感じたからです。

刺激を与え続けると人間の脳は麻痺できるもので、以前は毎夕6時にオフィスを後にしていたのに、しばらくして夜10時、11時が当たり前の生活がはじまりました。

当然のことながら、ライフワークとしていた知的障がい者のボランティア活動は、自然とできなくなっていったのです。

■「ワーカーズ・ハイ」

不思議なもので、数か月もすると、体は慣れるものです。終電を逃すと、さらにダラダラと朝の2時や3時までオフィスに残っている日常を、私は平気で送るようになっていきました。

毎日その時間に残っている同僚たちの顔ぶれはいつも一緒。仕事の成果ではなく、夜遅くまで残っていることそのものに充実感を感じるようになり、そんな連中ばかりと、私は仲良くなっていきました。

これは一種の「ワーカーズ・ハイ」と呼ばれる現象です。

苦しい経験を一定基準超えると、一転して楽しい感覚を味わえるようになります。「ランナーズ・ハイ」と同じ原理です。

「昨日、何時に帰った? 夜の10時? ああ、それで横山いなかったのか。俺が出張から戻って10時半にオフィスへ戻ってきたときはいなかったもんな。あれから朝の4時までいたよ。いったんカプセルでシャワー浴びて7時にまたオフィス来たら、もう部長、出社してた。あの人、出張先で同じだったから、どこで寝たんだろうな。はははは」

恍惚とした表情をしながら笑う同僚。「何がおかしいんだ」と思いながら、調子を合わせて笑う私も私でした。

■ 残業が「リア充」

リアル(現実)の生活が充実していることを「リア充」と呼びます。

フェイスブックやインスタグラムなどのSNSで、美味しい食事を友人と楽しんでいる写真。家族でリゾート地へ出かけている写真がたくさん投稿されています。まさにああいう体験が一般的な「リア充」のはずですが、モーレツ社員にとっては残業こそが「リア充」。休日出勤こそが「リア充」です。

仕事によって手にした成果は目に見えませんが、長時間働いているという事実は、簡単に、確実に、他人に見せつけられます。

そんな生活を何年も送っていると、創意工夫するチカラが失われていきます。何が成果なのかも、わからなくなります。

以前は定時までに成果を出せていた私が、夜の10時になっても朝の3時まで働いても、成果を出せないサラリーマンになっていきました。そんな私が、無気力の塊になっていくのは、必然だったかもしれません。

その後、心の状態を悪くし、社会復帰するのに数年かかりました。

■ マイノリティとして

現在、私は目標を絶対達成させるコンサルタントとして、企業の現場でご支援させていただく仕事に就いています。

この仕事を15年近くやってきて思うことは、成果を出すのに労働時間はあまり関係がない、ということです。一時的には仕方がなくとも、恒常的に長時間働いている組織は、成果を出しづらい体質になっています。

ですから、働き方改革時代となった今、「残業好き」がマイノリティとなったのは、当然の流れだとすら思います。

かつて長時間労働の文化をイヤというほど味わった私にとっては、感慨深いことです。

■ 今も感じる違和感

そんな現代でも、私が違和感を覚えることは減っていません。それは「残業」が善か、悪か、で語られる部分です。

昔は、「残業しない日本人なんて非国民だ」的な発想が世の中に蔓延していました。「意味のある残業」か「意味のない残業」かの議論はそっちのけ。とにかく残業そのものをしないだなんて、あり得ない、という風潮があったのです。

いっぽう、今はどうか。

実は、根っこの部分は同じです。

「残業させる組織は社会悪だ」的な発想が広がりつつあるからです。「意味のある残業」か「意味のない残業」かの議論はそっちのけ。必要な残業でも「ダメだ」。たとえ1時間の残業でも「ダメだ」、という空気は、あきらかにおかしいのです。

私のスタンスは昔も今も、まったく変わっていません。大事なことは成果です。

企業で働いている以上、求められる付加価値を出せているかどうかが判断軸です。

成果を出せたなら、定時退社でいいのです。成果を出せないのなら、出せるまで残業するのです。それだけです。そうすることで、定時までに成果を出すために、本人が工夫するようになります。

残業をしないような奴はダメだとか、残業をするような奴はダメだとか。時代によって変化するのはナンセンス。そういう判断軸は存在しないのです。限られた時間的リソースで、成果を最大化するにはどうすべきか、それを考えられる社員が増えてほしいと願っています。