Yahoo!ニュース

【インタビュー】ゲイリー・ムーアのブルースを支えたベーシスト、ピート・リース

山崎智之音楽ライター
Pete Rees / courtesy of Pete Rees

2011年2月6日にゲイリー・ムーアが亡くなって、11年の月日が経つ。ロック、ブルースなどジャンルを超越したギター・プレイは聴き継がれ、「パリの散歩道」「スティル・ゴット・ザ・ブルース」などは永遠のクラシックスとして愛されてきた。2020年、生前の音源を集めたアルバム『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』が発表されて大きな話題を呼んだし、その命日にはSNSでも“ゲイリー・ムーア”がトレンド・ワードになるなど、ゲイリーは今もなおファンの心の中で生き続ける。

ピート・リースは1999年から2010年、ゲイリーの後期のキャリアを支えたベーシストだ。決して派手ではないものの、ソリッドなベース・プレイはゲイリーのギターと相性が良く、2010年の日本公演でもがっちりバックアップしていた。

本記事ではピートにゲイリーとの思い出、そして現在の活動などについて訊いてみよう。

Gary Moore『How Blue Can You Get』ジャケット(ソニーミュージック/現在発売中)
Gary Moore『How Blue Can You Get』ジャケット(ソニーミュージック/現在発売中)

<ゲイリーはいつかブルースに戻ってくると信じていた>

●新型コロナウィルスの影響下で、どのような生活をしていますか?

まだ大勢の人が集まる場所は避けているけど、少しずつ普通の生活を取り戻しているよ。一時はクレイジーな状況だった。外にも出られないし、髪を切りにも行けなかったんだ。私はライヴ・ミュージシャンだから、ツアーに出ることが出来ず、商売上がったりだったよ。でも徐々にライヴも行われるようになってきたし、またステージとツアー・バスでの生活に戻るのが楽しみだ。それが私の人生だからね。

●アルバム『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』は聴きましたか?

完成したアルバムを通しては聴いていないんだ。だからレコーディングには参加していても、“作品”としてどうなのかは何とも言えないよ。『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』のことは、ある日電話をもらって知ったんだ。「ゲイリーのニュー・アルバムを出す」と言われて驚いたよ。何の話だ?ってね(笑)。2000年だか2001年にスタジオで録ったジャムだし、正直あまり覚えていなかった。晩年のゲイリーは曲のアレンジをあまりいじることなく、極力ライヴに近い形でレコーディングするのを好んだんだ。スタジオでのリハーサルやライヴのサウンドチェックで膨大な回数のジャムを行ってきたし、どれが録音されていたかも判らない。おそらく今回リリースされるのはその一部だし、他にもいろんな音源があるんじゃないかな。将来的にはいずれまたゲイリーの“ニュー・アルバム”がリリースされるだろうし、私自身も楽しみにしているよ。

●あなたが記憶している音源で、今回リリースされなかったものはありますか?

うーん、残念ながら具体的な例を挙げることは出来ないよ。その場の勢いで「この曲、知ってる?やってみようか」って次々とプレイしていたから、記憶に残っていないんだ。

●エルモア・ジェイムズのカヴァー「ダン・サムバディ・ロング」は異なったアレンジのヴァージョンが『オールド・ニュー・バラッズ・ブル−ス』(2006)に収録されていますが、今回『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』に収録されたものは初期ヴァージョンでしょうか?

私たちはロンドンの“ミュージック・バンク”というリハーサル・スタジオでよくリハーサルをしていたんだ。ブルースのラフなアイディアを録音したり、とてもクリエイティヴな作業だったよ。同じブルース・ナンバーを異なったアレンジで何度もプレイしたこともあったし、「ダン・サムバディ・ロング」もそんなひとつだったかも知れないね。録音時期からすると、『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』に収録されたヴァージョンの方が早いと思う。データ・シートなどがあれば正確な時期が判るんだけどね。

●「ラヴ・キャン・メイク・ア・フール・オブ・ユー」は元々1983年頃のアウトテイクでポップ・チューンでしたが、今回ブルース・アレンジのヴァージョンが収録されてファンを驚かせました。どんな背景があったのでしょうか?

実はオリジナル・ヴァージョンは聴いたことがないんだ。リハーサルで簡単なコード進行を教えてもらって、その場で演奏しただけだよ。もしかしたら「昔書いた曲だ」とゲイリーが言っていたかも知れないけど、覚えていない。その場ではヴォーカルも入れていないから、曲のタイトルも判らなかった可能性が高いんだ。

●『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』で、あなたは『ア・ディフェレント・ビート』(1999)期に録られた「ルッキング・アット・ユア・ピクチャー」以外の全曲でプレイしていますが、どの曲がいつ録音されたか判りますか?ドラムスはダリン・ムーニーが「アイム・トア・ダウン」「イン・マイ・ドリームス」「ダン・サムバディ・ロング」、グレアム・ウォーカーが「ステッピン・アウト」「ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット」「ラヴ・キャン・メイク・ア・フール・オブ・ユー」「リヴィング・ウィズ・ザ・ブルース」で叩いていますが...。

ダリン・ムーニーはゲイリーのバンドとプライマル・スクリームでの活動を掛け持ちしていて、プライマル・スクリームのツアーに同行しなければならなかったんだ(注:2001年と推定される)。それで1990年代、『スティル・ゴット・ザ・ブルース』(1990)などでプレイしたグレアム・ウォーカーが呼び戻されて参加しているんだよ。だからダリンが叩いたのが2000年、グレアムが2001年じゃないかな?

●『オールド・ニュー・バラッズ・ブル−ス』では基本的にジョナサン・ノイスがベースを弾いていますが、「ノー・リーズン・トゥ・クライ」ではあなたとヴィック・マーティン、グレアム・ウォーカーが参加しています。この曲は新規に録音されたのでしょうか?それとも2001年に録られたテイク?

2000年代の初め、ゲイリーはブルースからよりロックに近い音楽性にシフトしていったんだ。『スカーズ』(2002)、『パワー・オブ・ザ・ブルース』(2004)とかね。私はそれらのアルバムに参加していない。ゲイリーがシン・リジィへのトリビュート・ライヴをやったとき(2005)にベースを弾いたのがジョナサン・ノイスで、彼がそのまま『オールド・ニュー・バラッズ・ブル−ス』でも弾いているんだ。ジョナサンは素晴らしいベーシストだけど、決してブルース・プレイヤーではないから、その後、私が呼び戻されることになった。「ノー・リーズン・トゥ・クライ」は良い曲だし、弾いたのは覚えているんだ。でも、いつだったか...君の言うとおり、2001年だった可能性はある。でも具体的な時期は記憶にないんだ。ゴメン!

●ゲイリーは2010年の日本&韓国公演でブルース・ツアーを行った後、同年5月下旬からヨーロッパでロック・ツアーを行い、翌年亡くなりました。彼はいずれブルースに戻ってきたでしょうか?

ゲイリーにロック・プロジェクトのことを告げられたのは、東京のホテルのバーだったと記憶している。しばらく別の編成でバンドをやると言われたんだよ。彼のロック・ツアーは当初、夏のフェスティバル幾つかだけの予定だったんだ。でも反響が凄くて、延長されることになった。でも彼の心は常にブルースと共にあったし、早かれ遅かれブルースに戻ってきたと思うよ。少なくとも私はそう信じていた。あれで別れになるなんて、想像もしていなかったよ。ゲイリーの魂の根底にあるのがブルースだった。ブルースの本質はジャムだ。ゲイリーはB.B.キングやジョン・メイオールなど、誰とでもジャムをすることが出来たよ。スルリと融け込むことが出来たんだ。

●彼はロック・ツアーの前にブルース・アルバムを1枚完成させたにも拘わらず、いったん保留にしていたとも言われています。そのアルバムはどうなったのでしょうか?

いや、その話は知らないな。ゲイリーとは何度も一緒にジャムをやったりしたけど、正式に“さあ、アルバムを作るぞ”と集まったのは、『バッド・フォー・ユー・ベイビー』(2008)が最後だった。別のベーシストとレコーディングしたかも知れないけど、ブルース・アルバムだとしたら、私に声をかけていたと思うよ。だから“そんなアルバムは存在しない”という可能性が高いな。

Brian Downey, Gary Moore, Pete Rees, Vic Martin / courtesy of Pete Rees
Brian Downey, Gary Moore, Pete Rees, Vic Martin / courtesy of Pete Rees

<ゲイリーは音楽に対しては常にシリアスだった>

●あなた自身のことを教えて下さい。いつ、どこで生まれたのですか?

私は1955年6月16日、ウェールズ南部のグリニースGlynneathに生まれたんだ。1955年というのはエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーの人気がブレイクした、ロックンロールの当たり年だよ。16歳で工場で働いているとき、同僚がベースを弾いていて、その影響で私も弾くようになったんだ。17歳のときロンドンに来て、いろんなバンドでライヴをやってきた。

●どんなアーティストやベーシストから影響を受けましたか?

最も影響を受けたベーシストはジャコ・パストリアスだった。彼は天才だし、私の手が届く存在ではないけどね。それからジェイムズ・ジェマースン、ウィリー・ウィークス...もちろん1960年代のブリティッシュ・ブルースも通過したよ。クリームや初期のフリートウッド・マックとかね。ゲイリーを通じてピーター・グリーンと会えたときは感動したよ!マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフとか、アメリカのブルースメンも愛聴していた。オールマン・ブラザース・バンドも最高だった。

●ゲイリーとはどのように知り合ったのですか?

1998年、私はパパ・ジョージというブルース・プレイヤーのバンドにいて、ロンドン周辺でライヴをやっていたんだ。それでチェルシー・ハーバーのパブ“フロッグ・アンド・ファーキン”でやったショーをゲイリーが見ていて、声をかけてくれたんだよ。彼のパートナーだったジョーの誕生日パーティーでパパ・ジョージのバンドがプレイして、それにゲイリーが飛び入りしてジャムをやったんだ。素晴らしい経験だったよ。すごく小さなパブでゲイリーを見られて、その場に居合わせたお客さんにとってもスペシャルな経験だったに違いないね。彼は私のプレイを気に入ってくれて、リハーサルに招かれた。それで1999年のツアーから一緒にやるようになったんだ。その時点でドラマーはゲイリー・ハズバンドだった。レヴェル42とかでやっていた人で、凄いテクニシャンだったよ。彼はいろんなミュージシャンから引っ張りだこで、抜けることになった。そうして何人かのドラマーをオーディションしたんだ。それでダリン・ムーニーが加わった。彼と私のコンビネーションは最高だったし、キーボード奏者のヴィック・マーティンも加わって、良いバンドになったよ。

●1999年の『ア・ディフェレント・ビート』ツアーのセット・リストではブルースとよりモダンな楽曲が混在していましたが、違和感なくプレイすることが出来ましたか?

さほど大きな問題には直面しなかったよ。ツアーの最初だけ演奏して、しっくり来ないんですぐに外した曲もあったけど(「ゴー・オン・ホーム」)、「サレンダー」はブルース・アルバムに入っていてもおかしくないタイプの曲だったし、スムーズに弾くことが出来た。「ロスト・イン・ユア・ラヴ」はアップテンポで、お客さんも盛り上がってくれたよ。

●ゲイリーとの活動はどのようなものでしたか?

ゲイリーと一緒にやるのは楽しかったよ。彼はシャイで、知らない人とはあまり打ち解けなかったけど、仲間たちとはいつもジョークを飛ばして、笑いが絶えなかった。でも彼は音楽に対しては常にシリアスだったね。ギタリストとしてもあらゆるスタイルでプレイ出来て、それでいて独自のアイデンティティを持っていた。“世界最高峰”と呼んで遜色なかったし、共演出来るのは名誉だった。ギターのチューニングが身体に染みついているように正確だったのも思い出に残っているよ。彼がこの世界からいなくなったことは大きな損失だし、私にとっても素晴らしい友人を失ったのは悲しい。

●ゲイリーは共演者に対する要求が細かく具体的で厳しく、それに不満を漏らすミュージシャンもいたそうですが、あなたは問題ありませんでしたか?

きちんと自分の仕事をすれば、ゲイリーはちっとも気難しい人間ではなかったんだ。それほど1音1音について注文をつけたりはしなかったよ。だってブルースだからね。その場で何が起こるか判らない偶発性がないと、息苦しくなってしまうんだよ。でも音楽に対して真摯でなかったり、プロフェッショナルでない演奏をする人間に対しては容赦がなかった。彼を“独裁者”呼ばわりしたのは、そんな連中じゃないかな。誰とは言わないけどね(笑)!

●2011年2月6日のゲイリーの死はどのようにして知ったのですか?

ある朝、ゲイリーのアシスタントだったダレン・メインから電話がかかってきたんだ。信じられなかったよ。彼はいつも生命エネルギーでいっぱいだった。ショックだったね。

●最後にゲイリーと会ったのは?

2010年のジャパン・ツアーの後、韓国のソウルでやったショーの後だった。飛行機の長旅で疲れていたし、イギリスに戻って「お疲れさま、またね」みたいな感じでみんな帰宅したんだ。それが最後になるなんて、想像もしなかったよ。健康状態も悪いようではなかったしね。

●ゲイリーが亡くなった後は、どんな活動をしてきましたか?

ロンドンのブルース・シーンで、いろんなミュージシャンとライヴをやってきたよ。ミッキー・ムーディーやボブ・テンチともやったし、ジョニー・ウィンターのバンドにいたトム・コンプトンと一緒にやったこともある。ロンドン近辺でチャーリー・モーガンとも共演した。彼も1980年代にゲイリーとやったことがあったらしいね。世界は狭いものだと驚いたよ。最近ではビリー・メルズィオティス Billy Merziotisというギリシャ出身のギタリストと、ゲイリーの音楽をプレイするショーをやったんだ。ビリーからヴィック・マーティンと私に、ゲイリーの音楽をプレイするショーをやりたいという話があって、2019年にギリシャとマケドニアでツアーをした。彼は44〜45歳と私より若く、良いギタリストだし、ゲイリーの魂が降りてきたようなギターを弾く。「スティル・ゴット・ザ・ブルース」「エンプティ・ルームス」「ザ・プロフェット」など、たまにゲイリーがいるんじゃないかって、ハッとする瞬間があるよ。もちろん彼独自のスタイルを持っているし、日本の音楽ファンも気に入ってくれる筈だ。彼と日本に来られたら最高だね。

●あなたが日本に戻ってくるのを待っています。

ゲイリーとの2010年のジャパン・ツアーは本当に楽しかったよ。私にとって初めての日本だったけど、ファンはゲイリーの音楽に熱狂的に盛り上がってくれたし、誰もが敬意を込めて接してくれた。間違いなく、人生最高の思い出の一つだよ。

Pete Rees, B.B. Kng and friends / courtesy Pete Rees
Pete Rees, B.B. Kng and friends / courtesy Pete Rees

【最新アルバム】

ゲイリー・ムーア

『ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット』

ソニーミュージック/現在発売中

https://www.sonymusic.co.jp/artist/garymoore/

【最近の活動】

Gary Moore Band ft. Billy Merziotis

https://www.thegarymooreband.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

山崎智之の最近の記事