死んだふりをして、大名や家臣を驚かせた豊臣秀吉
今も昔も奇行が甚だしい人がいるが、豊臣秀吉もその1人だった。秀吉は貧しい家の出身で、若い頃は織田信長に仕え、出世するために非常に勤勉だった。
ところが、本能寺の変で信長が横死し、代わりに天下人になると、秀吉には奇行が目立つようになった。そのうち1つの例を紹介しておこう。
秀吉の変わった行動は多々あるが、成功するたびに次第にエスカレートしていった。姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。次に、その具体的な例を『看羊録』の記述から挙げておこう。
ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚の亜流である。
ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。
その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに彼らは、それが偽りであることを知っていたのである。
ちなみに曹操の疑塚とは、曹操があらかじめ72基の墓を作り、死後に曹操を埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。
内容を改めて確認すると、秀吉は死んだふりをしたあと、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかっただけかもしれないが、事情を知らない家臣は、心臓が止まるような思いをしたに違いない。
しかし、現実に秀吉のイタズラは世に広く知られており、事情を詳しく知る家臣らは「またか」という具合で、何とも思わなかったのである。
秀吉自身にとっては単なる悪ふざけだったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を愚弄する行為にしか見えなかった。秀吉は家臣を弄ぶことを常としていたが、それは少なからず彼の出自と関係したと考えられる。
つまり、秀吉は自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を感じていたのである。いずれにしても、趣味の悪い話である。