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死んだふりをして、大名や家臣を驚かせた豊臣秀吉

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 今も昔も奇行が甚だしい人がいるが、豊臣秀吉もその1人だった。秀吉は貧しい家の出身で、若い頃は織田信長に仕え、出世するために非常に勤勉だった。

 ところが、本能寺の変で信長が横死し、代わりに天下人になると、秀吉には奇行が目立つようになった。そのうち1つの例を紹介しておこう。

 秀吉の変わった行動は多々あるが、成功するたびに次第にエスカレートしていった。姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。次に、その具体的な例を『看羊録』の記述から挙げておこう。

 ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚の亜流である。

 ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。

 その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに彼らは、それが偽りであることを知っていたのである。


 ちなみに曹操の疑塚とは、曹操があらかじめ72基の墓を作り、死後に曹操を埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。

 内容を改めて確認すると、秀吉は死んだふりをしたあと、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかっただけかもしれないが、事情を知らない家臣は、心臓が止まるような思いをしたに違いない。

 しかし、現実に秀吉のイタズラは世に広く知られており、事情を詳しく知る家臣らは「またか」という具合で、何とも思わなかったのである。

 秀吉自身にとっては単なる悪ふざけだったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を愚弄する行為にしか見えなかった。秀吉は家臣を弄ぶことを常としていたが、それは少なからず彼の出自と関係したと考えられる。

 つまり、秀吉は自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を感じていたのである。いずれにしても、趣味の悪い話である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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