敵を大混乱に陥れた、織田信長の恐るべき情報戦略
言うまでもないが、手段こそ異なれど、今も昔も情報は極めて重要だった。それは、天下統一を目指した織田信長も同じである。当時の情報伝達は書状で行われたが、信長は恐るべきアイデアで敵を大混乱に陥れた。その全貌を紹介することにしよう。
弘治3年(1557)、信長は今川氏と敵対しており、今川方の笠寺城(名古屋市南区)を守備する戸部政直に悩まされていた。もともと政直は織田方に従っていたが、後に今川方に転じたという。政直は義元の妹を妻に迎えたのだから、信が置ける重臣でもあった。
そこで、一計を案じた信長は、政直の書状を手に入れた。そして、右筆に命じて、政直の手紙を偽造させたのである。その内容とは、政直が今川方から離反し、信長に味方するというものだった。信長は謀略により、政直を排除しようとしたのである。
信長は配下の森可成に偽造した手紙を預けると、今川方の本拠の駿府(静岡市葵区)に潜入するよう命じた。可成は怪しまれないよう、刀の鍔を売る商人に変装すると、何食わぬ顔をして駿府に潜り込み、今川義元の家臣の屋敷を訪ねたのである。鍔を売るという名目だった。
可成は鍔を包んでいた反故の紙(書き損じた書状)を開き、家臣に鍔を見せた。そのとき家臣は、包んでいた反故の紙が政直の手紙であることに気付いたのである。内容を読んで驚いた家臣は、その手紙が偽造されたものとも気付かず、ただちに義元のもとに持参した。
義元も政直の書状が偽造されたものと気付かず、政直を呼び出し成敗したのである。処刑された場所は、三河吉田(愛知県豊橋市)だったといわれている。処刑された年は、弘治3年(1557)のほか、永禄2年(1558)という説もある。
この話は、小瀬甫庵の『太閤記』、『新武者物語』、『森家先代実録』といった二次史料に書かれており、一次史料では確認できない。もちろん、信頼度の高い二次史料『信長公記』にも書かれていない。したがって、史実か否か疑わしく、信長の才覚を伝えるエピソードの一つと考えるべきである。