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【光る君へ】大変気になる、騙されて出家した花山天皇のその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 新御車寄と月華門。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」は、藤原兼家が着々と進めていた花山天皇の出家が実現した回だった。それまで、藤原道兼は父の兼家の指示に従い、着々と策謀を実行した。騙されて出家した花山天皇は、その後どのような生活を送ったのだろうか。その点について考えることにしよう。

 寛和2年(986)6月、まだ19歳だった花山天皇は花山寺(元慶寺/京都市山科区)で出家した。藤原兼家は孫(のちの一条天皇)を即位させるべく謀略を練っており、子の道兼に命じて実行させた。

 道兼が花山天皇に出家を勧めた際、「自分も出家してお仕えします」と言ったが、それは真っ赤なウソだった。花山天皇は出家したあとに知ったので、どうしようもなかったのである。

 出家した花山天皇は法皇となり、書写山圓教寺(兵庫県姫路市)の性空のもとで研鑽を積んだ。法名は入覚。さらに比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の戒壇院で灌頂受戒し、熊野(和歌山県田辺市など)で仏道修行に励んだのである。亡くなった女御の忯子を弔う意味もあったに違いない。

 ところで、中山寺(兵庫県宝塚市)には、奈良時代に徳道なる僧侶が石棺に観音霊場三十三ヶ所の宝印を納めたという言い伝えがあった。花山法皇は中山寺からその宝印を見つけ出すと、先述した熊野を出発して、宝印のある三十三の観音霊場を巡礼する修行を行った。

 その結果、大きな法力を身につけたと伝わっている。その巡礼した場所は、のちに西国三十三所巡礼となった。また、花山法皇が各霊場で詠んだ御製の和歌は、のちに御詠歌となり、それらは今も受け継がれている。

 花山法皇は各地を巡礼したが、その中でもっとも気にいった場所が東光山(兵庫県三田市)である。花山法皇は東光山で隠棲生活を送ったので、花山院菩提寺として御廟所が設けられた。

 現在、その場所は、西国三十三所巡礼の番外霊場として知られている。また、六甲比命神社(兵庫県神戸市)の仰臥岩には、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑が建立されている。

 寛弘5年(1008)2月、花山法皇は亡くなった。その遺骸は、紙屋上陵(京都市北区)に葬られた。数多くの奇行が伝わっているが、それらは『大鏡』などの歴史物語に書かれたもので、事実か否かは疑わしい。実際は絵や和歌などの芸能に優れており、『拾遺和歌集』を撰したともいわれている。

主要参考文献

倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA、2023年)

朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1996年)

山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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