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筒井定次が伊賀に国替され、羽柴秀長が大和に配置された理由とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大和郡山城の櫓。(写真:イメージマート)

 2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」は、豊臣秀吉・羽柴秀長兄弟が主人公である。天正18年(1590)に大和を支配していた筒井定次が伊賀に国替されると、代わりに羽柴秀長が大和に配置された。その理由について、考えることにしよう。

 永禄5年(1562)、定次は順国の次男として誕生し、のちに本家筋にあたる順慶の養子になった。順慶には、後継者となる子がいなかったからだ。

 天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、羽柴(豊臣)秀吉が新たな天下人として台頭した。その後、定次は、築城間もない大坂城(大阪市)の秀吉のもとに人質として送られた。しかし、天正12年(1584)に順慶が病没すると、筒井家の家督を継承したのである。

 天正12年(1584)、定次は豊臣方として小牧・長久手の戦いに参戦し、大いに軍功を挙げた。そのときの軍功が評価され、定次は右近大夫に任じられた。

 翌年の紀州征伐、四国(長宗我部氏)征伐でも活躍し、秀吉の期待に大いに応えた。定次は豊臣政権下の大名として、確固たる地位を築いたかに見えた。

 天正18年(1590)閏8月、秀吉は定次に伊賀国上野(三重県上野市)への転封を命じた。これには、もちろん理由があったのはいうまでもないだろう。

 大和は長く興福寺の支配が続き、筒井氏も大和の国人らとともに支配を行っていた。しかし、秀吉はそうした大和の古い体質を一掃すべくし、新たな秩序作りを目論んだのである。

 このとき大和の国人や武士たちは、農民になって大和に止まるか、筒井氏とともに新天地(伊賀)に赴くか、二者択一を求められた。英俊は『多聞院日記』の中で、「悲嘆極まりなきところなり」と率直な感想を書き残した。

 こうして、大和の国人や武士たちの多くは伊賀へ行くことを希望し、住み慣れた土地を離れることになった。その後、新たに大和に入封し、郡山城(奈良県大和郡山市)主になったのが秀長である。

 これまで、定次の大和から伊賀への移封については、石高が大幅に減ることから、秀吉による左遷であるといわれたこともあった。しかし、筒井氏の伊賀転封は石高上の問題にすぎず、左遷であるか否かを問うことは、あまり意味がなさそうである。

 定次のあとに入った秀長は、大和のほか和泉・紀伊を与えられていた。つまり、豊臣政権の政策をいっそう進展させるため、大和での活躍を期待されたのである。こうして秀長は、大和支配を行ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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