【光る君へ】花山天皇が出家したのは、忯子の死だけではなく、ほかにも理由があった
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、花山天皇が藤原道兼(兼家の子)に騙され、花山寺(元慶寺)で出家する場面がいちばんの見どころだった。道兼は花山天皇に出家を勧めた際、自分も一緒に出家すると言ったが、約束を反故にした。では、なぜ、花山天皇は出家したのだろうか。
花山天皇には、もっとも愛した女御の忯子(藤原為光の娘)がいた。忯子が入内したのは、永観2年(984)のことである。その翌年、忯子は懐妊し、花山天皇は大いに喜んだ。
普通、女御が懐妊すると、内裏が出産時の血で穢れないよう、実家に帰していた。しかし、花山天皇は忯子を愛するあまり、里帰りをさせなかったのである。これが、忯子にとって不幸なことになった。
忯子は悪阻が酷かったといわれ、妊娠3ヵ月を迎えても、里帰りが許されなかった。やがて、忯子の体力は衰えを見せはじめ、妊娠5ヵ月になっても状況は変わらなかった。2人はともに寝所で過ごしたが、忯子の状態は決して好転しなかった。
こうして寛和元年(985)8月7日、ついに忯子は病没したのである。花山天皇は泣き叫び、その悲しみは尋常でなかったという。忯子が亡くなったのは17歳で、花山天皇は18歳だった。
一般的に言えば、花山天皇が出家を決意したのは、忯子の死がきっかけになったといわれている。その一方で、ほかの原因も絡んでいたとの見解もある。
花山天皇を支えていたのは、叔父の藤原義懐だった。しかし、花山天皇が即位したときの義懐はまだ位階が低く、位階を急速に上げたという事情があった。
力を付けた義懐は感心しない振る舞いも多く、藤原兼家ら実力者から不興を蒙っていた。つまり、花山天皇は政情に絶望し、出家を決意したということになろう。
もう一つ有力視されているのは、宗教的な理由である(『花山院の生涯』)。寛和元年(985)8月7日に忯子が病没して以降、周囲の人々が相次いで出家した。
当時、人々に強い影響を与えていたのは、浄土教だった。浄土教は阿弥陀如来の住む極楽浄土に往生することを願うもので、現世よりも来世を重要視していた。
同時に、妊娠中や出産中に死んだ女性は成仏できないという考え方があり、花山天皇は忯子を極楽浄土に導いてやりたいと考えた。そこで、親交を深めたのが花山寺(元慶寺)の阿闍梨厳久である。
実は、道兼は厳久と通じており、花山天皇を仏教にのめり込ませるよう指示していた。その結果、花山天皇は道兼らの謀略に引っ掛かり、騙し討ちのような形で出家したということになろう。
主要参考文献
今井源衛『花山院の生涯』(桜楓社、1968年)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA、2023年)
朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1996年)
山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)