【光る君へ】安倍晴明が大注目されているが、そもそも陰陽師はどんな仕事をしていたのか
大河ドラマ「光る君へ」で存在感を増しているのが、ユースケ・サンタマリアさんが演じる安倍晴明である。かつて、晴明を主人公とした「陰陽師」という映画も大ヒットしたが、陰陽師とはいったいどのような仕事をしていたのか考えてみよう。
602年、陰陽道は百済の僧・観勒が我が国にもたらしたという。六国史のひとつ『日本書紀』によると、観勒は遁甲方術(神仙の術や占星術)、暦本、天文地理書の書物を伝え、選ばれた学生がこれを学んだ。陰陽師そのもの初見は684年のことであり、陰陽寮に6人、大宰府に1人がそれぞれ置かれ、のちに周辺諸国にも配置されるようになった。
そもそも陰陽道とは、中国古代の陰陽五行説に基づいた方術のことである。陰陽五行説は五行の木・火は陽、金・水は陰、土はその中間とし、これに日月、十干十二支を組合せ、人間界の吉凶や天地の変異などを説明する。しかし、陰陽五行思想は、仏教や道教の影響で俗信となっていたことに注意を払うべきだろう。
大宝元年(701)に制定された「大宝令」には、陰陽寮の規定がある。陰陽寮には、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士(時刻を知らせる官吏)などの専門家が配置された。彼らの主たる職務は、天体や気象の観測、暦の作成だった。
平安時代中期になると、物忌や方違などの陰陽道の禁忌が確立すると、賀茂、安倍の両氏が陰陽寮の要職を担い世襲化した。両氏は、天皇や公家のために占いをしたり、除災の法を執り行ったのである。のちになると、賀茂氏の子孫は幸徳井、安倍氏の子孫は土御門を姓とした。中でも土御門家は、中世、近世を通して勢力を持つようになった。
陰陽寮の中でもっとも重要な仕事は、暦の作成だった。当時の人々は迷信を信じていたので、方角や日取りに注意を払っていた。それゆえ暦には、悪い方角や悪日を細かく記され、人々は外出する際の参考にしていたのである。現在でも、結婚式や葬式を執り行う際に日取りを重視するのは、陰陽道の影響である。
また、陰陽師は災いを取り除き、福を招くために祭りやお祓いを執り行った。こうして陰陽道は民衆に浸透したが、迷信的な色彩が濃くなっていたのも事実である。江戸時代以降、土御門家は全国に広まった民間の陰陽師の統制を許可されていたが、明治以降になると自然消滅したのである。