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直江兼続の妻・お船の方は訳アリだった。その波乱の生涯を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
直江兼続。(提供:アフロ)

 昨今、婚活はアプリで行われるようになったが、昔は政略によるものが主流だった。夫と死別しても、問答無用で次の相手と結婚させられることもあった。直江兼続の妻・お船の方もその一人だったので、波乱の生涯を探ることにしよう。

 弘治3年(1557)、お船の方は与板城(新潟県長岡市)主・直江景綱の娘として誕生した。景綱は越後を支配していた長尾景虎(のちの上杉謙信)の重臣だった。景綱は景虎から「景」の字を与えられるほど重用されていたが、家督を継ぐ男子には恵まれることなく、後継者問題に悩まされていた。

 そこで、景綱は総社長尾氏から長尾藤九郎を婿として迎え、お船の方と結婚をさせた。のちに、藤九郎は直江信綱と姓名を改め、天正5年(1577)に景綱が没すると、直江家の家督を継いだ。

 天正9年(1581)、信綱は上杉家の重臣・河田長親の遺領をめぐる争いに巻き込まれ、春日山城(新潟県上越市)で毛利秀広によって殺害された。夫を失ったお船は悲嘆に暮れていたが、まもなく上杉景勝(謙信の養子)の勧めもあって、樋口兼続と再婚することになったのである。

 兼続は直江家の名跡を継ぎ、姓を改め直江兼続と名乗った。以後、兼続は景勝から重用され、上杉家の執政を担うことになったのである。お船の方は兼続とともに、直江家と上杉家を守り立てていった。兼続とお船の方は、一男二女を授かった。長男が景明、長女が於松、次女の名は不明である。

 長男の景明は生まれつき体が弱く、両目を患っていたという。景明は、慶長20年(1615)に22歳で短い生涯を終えた。兼続はすでに慶長9年(1604)の時点で、於松の夫として本多正信の次男・政重を迎え、婿養子にした。

 ところが翌年、於松は不幸にも亡くなったのである。兼続の懇願によって、政重はしばらく直江家に残ったが、のちに前田家に帰参した。結局、直江家には後継者がいなくなり、兼続没後に改易となったのである。

 ところが、ここで思わぬことが起こった。景勝の側室は定勝を生んだものの、間もなく亡くなってしまった。そのような事情もあり、定勝は兼続夫妻が育てることになったのである。以後、お船の方は、定勝と親子同様の関係となったという。

 元和5年(1619)、兼続が病没したので、お船の方は出家して貞心尼と号した。そして、直江家の江戸屋敷に住み、景勝から化粧料として3千石を与えられた。お船の方は、源頼朝の妻北条政子に例えられるように、上杉家中に大きな影響力を保持したという。

 しかし、いかにお船の方といえども、病魔には勝つことができず、定勝の願いも空しく、寛永14年(1637)に81才で亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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