【光る君へ】立派に成長した一条天皇とは、どのような人物だったのか
大河ドラマ「光る君へ」では、立派に成長した一条天皇の姿が描かれている。一条天皇とは、どういう人物だったのか、考えてみることにしよう。
一条天皇が誕生したのは、天元3年(980)7月15日のことである。父は円融天皇、母は藤原詮子(藤原兼家の娘)だった。
当時、藤原兼家は公家社会での台頭を目論んでいたので、一条天皇の誕生は朗報だった。一条天皇が即位すれば、兼家は外祖父として摂政(あるいは関白)となり、権勢を振るうことが可能になるからである。
そのチャンスが巡って来たのは、寛和2年(986)のことである。当時の天皇は花山天皇であり、一条天皇は皇太子だった。同年、花山天皇は女御の藤原忯子を病で失い、失意のどん底にあった。
そこで、兼家は花山天皇を退位に追い込み、一条天皇を即位させようと目論んだ。その際、重要な役割を果たしたのが、兼家の子の道兼である。
道兼は花山天皇を内裏の外に連れ出し、元慶寺(花山寺)に到着すると、出家を勧めた。花山天皇の決心が鈍りそうになると、「自分も出家する」と騙したのである。
こうして花山天皇は出家し(同時に退位)、一条天皇が即位した。兼家は摂政に就任すると、自らの手で子の道隆、道兼、道綱、道長も出世させたのである。
一条天皇の即位式の際、何者かが高御座に生首を置いたという(『大鏡』)。当時の人々は「穢れ」を恐れていたので、このままでは即位式を行うことができなかった。
兼家は生首の件を知っていたものの、そ知らぬふりをして即位式を執り行った。これが史実であるか否かは不明であるが、栄達を遂げた藤原氏を快く思わない者がいたエピソードだろう。
永祚2年(990)1月、一条天皇の元服式が執り行われた。もっとも重要な加冠役を担当したのは、兼家である。しかし、兼家は同年7月に病没したので、子の道隆が摂政になった。道隆は一条天皇との関係を強化すべく、娘の定子を中宮とした。定子は、一条天皇より4歳年上だった。
こうして一条天皇は藤原一族と強固な関係を結び、そのもとで政治を行った。しかし、ドラマのとおり、道隆は大量の飲酒で糖尿病に罹り、病没した。その跡を継いだ弟の道兼は、疫病により亡くなった。
2人が相次いで亡くなったので、道長(道隆の弟)が伊周(道隆の子)との政争に勝利し、一条天皇を支えることになったのである。