誤解があまりに多く、評価が低すぎる3人の戦国武将
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現在の会社の人事は評価制度が徹底しているので、不満を持つ人は多いだろう。戦国武将の場合は、後世に成った二次史料によって、著しく評価が歪められている例があるので、その点を検証してみよう。
◎大内義隆(1507~1551)
作者不詳の『大内夢物語』という後世の書物では、大内義隆を「ひととなり容貌優美にして、女色にふけり、和歌・弦楽を好み、武道にうとく、茶道・蹴鞠の遊びに日を暮し、仏道に心を入れ、専ら華美を好み奢り、当時の諸侯になかりし」と酷評している。
義隆も和歌に精進を重ね、山口を訪れる公家や僧侶を歓待し、彼らから和歌を学んだ。とりわけ飛鳥井雅俊、三条西実隆、堯淵僧正から、和歌の指導を受けたことがわかっている。しかし、義隆の政治的な側面は評価されず、文化=軟弱武将というイメージが定着した感がある。
◎今川義元(1519~60)
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、義元は織田信長に敗れて戦死した。その理由は「文芸に溺れ、公家化したからだ」といわれている。
たしかに、義元は鉄漿をし、文芸にも傾倒していた。しかし、天文22年(1553)には「今川仮名目録追加」を制定し、駿河、遠江、三河で検地を行い、財政基盤を強化した。寄親・寄子制度を作り、軍役を整備した点も重要である。
戦国武将が和歌や連歌に親しむことは、決して珍しいことではなかった。義元は、たった一度の敗戦で戦死したので、かなり低く評価されているが、政治的な側面は高く評価すべきだろう。
◎北条氏政(1538~90)
天正18年(1590)、氏政は小田原合戦で豊臣秀吉に屈した。その際に開催された小田原評定は、責任を持って誰も決断せず、結論がいつまでも出ない話し合いや会議のたとえとされる。
また、氏政は飯に2度も汁を掛けたので、父・氏康が「毎日の食事をしているのに、飯に掛ける汁の分量すら量れないとは、北条家もおしまいだ」と嘆いたという。むろん、いずれも後世の創作なのだが、氏政を情けない人物として評価している。
しかし、永禄3年(1559)に疫病や飢饉が流行した際、氏政は徳政(借金の棒引き)を実施し、事態の収束に動いた。さらに、同じ年に貨幣法を改正し、精銭と悪銭の混合比率を7対3に定めた。
それだけでなく、父祖以来の領土を拡大することに成功した。こうした点は、もっと評価すべきである。