【光る君へ】ああ無念!『大鏡』に見る藤原道兼の最期
大河ドラマ「光る君へ」では、とうとう藤原道兼が亡くなってしまった。道兼の死の状況について、歴史物語の『大鏡』で詳しく見ることにしよう。
長徳元年(995)4月、関白を務めていた藤原道隆は、病によって亡くなった。道隆は大酒飲みで、死の間際には大量の水を飲んでいたというので、飲水病(糖尿病)が死因だったと考えられている。
道隆の死後、関白宣下を受けたのは、弟の道兼だった。しかし、道兼は関白に在任して、わずか10日で亡くなった。それゆえ、道兼は「七日関白」と呼ばれた。
道兼は、なぜ亡くなったのか?当時、京都市中には、疫病が蔓延していた。以下、歴史物語『大鏡』によって、道兼の死について考えてみよう。
関白就任直後の道兼は、気分がすぐれず、風邪ではないかと考えて薬を服用したが、一向に効果があらわれなかったという。だんだん道兼は、起居するのもつらくなったが、「若い者に政治を任せられん」と言っていた。これには、道長も満足げだった。
しかし、道兼の容態は徐々に悪化し、熱も出てきた。せっかく関白になった道兼は、読経や祈禱をやらなくてもよいと考え、平静を装ったというが、起居が苦しい状況は続いた。
御殿では侍の詰所にまで、四位、五位の人々が昼夜の別なく訪れた。隨身らの詰所では、酒を飲んで歌い騒ぐなどしており、道兼が苦しんでいることを気にしなかった。
ただ、道長が毎日やって来て、種々の指図をしていた。道兼の容態がなかなか良くならないので、ただ事ではないと思う人はいたが、万が一(道兼の死)のことは誰も考えていなかった。
一方で、道兼の病気のことが噂になったので、伊周(道隆の子)は将来に望みを掛けていた。もはや道兼の病状を隠すことができなくなったので、世間では大騒ぎになったという。やがて、道兼は重病になったので、道長は読経などの手配を行った。
その後、源重信らの死が伝わったが、「縁起が悪いので、道兼の耳には入れるな」と制された。道兼が亡くなったのは、長徳元年(995)5月8日のことである。
道長は、道兼の死に至る経緯を夢のように思ったという。また、道長は道兼と非常に気が合ったとも書かれており、道隆が亡くなった際は弔問をしなかったが、道兼には何かと世話をしたのである。