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判断ミスを繰り返して消えた、長宗我部盛親の悲惨な最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
長宗我部元親の家紋 七つ片喰(提供:イメージマート)

 最近の報道によると、岡豊城跡(高知県南国市)の発掘調査が行われ、長宗我部一族の寺という「瑞応寺」が存在した可能性が高まったという。こちら。長宗我部氏は四国統一を実現しかけたほどの大名だったが、盛親の代に判断をミスで滅亡したので、その辺りを確認しておこう。

 長宗我部盛親は元親の四男として誕生し、天正14年(1586)に後嗣に定められた。慶長4年(1599)に元親が亡くなると、盛親は正式に家督を継承した。ところが、長宗我部家中には、盛親が家督を継ぐことに反対する勢力が存在したので、盛親は家中統制に悩まされることになった。

 元親が亡くなった翌年の慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発すると、盛親は石田三成が率いる西軍に属した。しかし、合戦が始まる直前、西軍の毛利輝元は東軍に寝返っていた。

 盛親は毛利氏の軍勢と一緒に南宮山に陣を置いていたが、その事実をまったく知らなかった。開戦し、いよいよ西軍の敗色が濃厚になると、盛親は戦わずして領国の土佐に逃げ帰ったのである。

 その直前、盛親は家臣の久武親直にそそのかされ、兄の津野親忠を殺害していた。親忠が藤堂高虎と協力し、土佐国を支配しようとする動きがあったからである。事件の報告を受けた徳川家康は激怒した。

 盛親は井伊直政を通して家康に詫びを入れ、何とか処罰を逃れようとしたが、一方で浦戸城の防備を固め、兵糧の運搬や普請を命じるという矛盾した動きをしていた。指示を出したのは、盛親配下の非有と桑名三郎兵衛である(「土佐山内家宝物資料館所蔵文書」)。

 結局、家康の怒りは収まらなかった。盛親は上京して事情説明を行ったが許されず、ついに土佐一国を召し上げられた。改易処分を受けた盛親は、上洛して寺子屋を開き、家康に再び謝罪して、大名への復帰を目指した。親交のあった蜷川道標の助力を得ようとしたが失敗し、最終的に大名への復帰は成らなかったのである。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、盛親は豊臣家の誘いに応じて、大坂城に入城した。徳川方に勝利したときの条件は、土佐一国を与えるというものだった。しかし、翌年に大坂城は落城し、豊臣家は滅亡。盛親は逃亡したが捕縛され、無残にも斬首され、悲惨な最期を迎えたのである。

 このように、盛親は判断ミスを繰り返して、ついに伝統ある長宗我部家を滅亡に追い込んでしまった。せめて兄を殺さなければ、もう少し違った歩みをしたのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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