こんなに違った! 伊勢宗瑞(北条早雲)による小田原城奪取の虚像と実像
今から529年前の明応4年(1495)2月16日は、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪取した日であるという(年月日は、後述のとおり諸説あり)。小田原城奪取の虚像と実像には、かなりの隔たりがあるので紹介しよう。
『北条記』によると、宗瑞の小田原城攻撃の予兆が次のように描かれている。宗瑞は鼠が大きな2本の杉の木を根元から食い倒し、やがて鼠が虎へと変貌する霊夢を見た。
鼠とは子年生まれの宗瑞であり、2本の杉の木とは扇谷・山内の両上杉家のことである。小田原城の襲撃を予兆させる霊夢である。宗瑞はたびたび小田原城の大森藤頼(定頼。以下同じ)に対し、贈物をした。当初、藤頼は警戒していたが、親しい間柄になったという。
ある日、宗瑞は藤頼に鹿狩りをしたいので、大森氏の領内に勢子(狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防ぐ作業員)を入れさせてほしいと依頼した。藤頼は疑うことなく、申し出を快く許可したが、これが宗瑞の狙いだった。
宗瑞は屈強な武将たちを勢子に仕立て上げると、次々に大森氏の領内へと送り込んだ。その日の夜、宗瑞の軍勢は、1000頭の牛の角に松明を灯し、小田原城へと進軍した。これに呼応するかのように、潜んでいた勢子(実は宗瑞の軍勢)が鬨の声を上げて城下に火を放ったのである。
あまりに突然なことに、大森方では数万の軍勢が押し寄せたと勘違いし、藤頼は這う這うの体で小田原城から逃げ出した。宗瑞はほとんど戦わずして、小田原城を手に入れたのである。
『北条記』の記述によって、宗瑞が霊夢により軍事行動を起こしたことと、それが下剋上という当時の風潮に倣ったものであるように伝わった。
一次史料によっては、ここまで示したような劇的な攻略は確認できない。そもそも明応4年(1495)に小田原城が落城したのかも疑問視されている。この点について、もう少し考えてみよう。
明応5年(1496)に推定される上杉顕定書状(「宇津江氏所蔵文書」)によると、宗瑞が相模西部に侵攻した際、顕定は古河公方・足利政氏を奉じて交戦に及んだという。
顕定は扇谷上杉氏配下の上杉朝昌、太田資康、大森式部少輔(定頼?)、長尾景春、三浦義同らを降し、宗瑞の弟・弥次郎らが籠る「要害を自落」させ(逃亡させたとの意味か)、数多くの首を取ったという。
この「要害」とは小田原城ではないかと考えられている。大森式部少輔が定頼であるとすれば、そもそも宗瑞と定頼は味方だったことになる。『妙法寺記』(『勝山記』)にも、同年7月に宗瑞の弟・弥次郎が大敗したことが記されている。その記述とは、先の顕定との交戦を指すものと推測される。
その後、定頼は宗瑞のもとを離れ、山内上杉方に与した。そうした事情から定頼は宗瑞に攻撃され、小田原城の落城後には、義同の岡崎に逃れたというのである。
ちなみに義同は上杉高救と大森氏頼の娘との間にできた子供で、のちに子がなかった三浦時高の養子になった。義同ものちに宗瑞によって滅ぼされる。この検討結果を考慮すれば、そもそも明応4年(1495)に小田原城が落城したという説そのものが見直されなくてはならないだろう。
主要参考文献
池上裕子『北条早雲』(山川出版社、二〇一七年)
黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』(KADOKAWA、二〇一九年)
下山治久『北条早雲と家臣団』(有隣新書、一九九九年)