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本能寺の変勃発! 土壇場で明智光秀を裏切った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
亀山城跡 南郷公園の明智光秀像(写真:イメージマート)

 明智光秀の居城・坂本城(滋賀県大津市)の発掘が進み、滋賀県知事が保存に前向きだという。こちら。光秀は天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長を自害に追い込んだあと、諸大名に協力を求めたが、おおむね断わられた。そのうち、3人の武将を取り上げることにしよう。

◎筒井順慶

 元亀2年(1571)、筒井順慶は光秀の仲介により、信長に従うことになった。天正3年(1576)以降、順慶は光秀の与力となり、2人の関係は強くなった。

 その3年後、大和を支配していた松永久秀が信長に滅ぼされると、順慶は天正8年(1580)に信長から大和一国を与えられたのである。

 本能寺の変が勃発すると、光秀は順慶に味方になってほしいと要請したが、見事に断られた。一説によると、順慶は洞ヶ峠に布陣し、日和見したというが、今となっては俗説として否定されている。

 順慶は大和の国衆を束ねる存在でもあり、彼らや重臣と話を重ねたうえで、羽柴(豊臣)秀吉に与することを決定したという。つまり、独断では決められなかったのである。

◎高山右近

 キリシタン大名の高山右近は、信長から高槻城(大阪府高槻市)主として処遇されていた。天正6年(1578)以降の有岡城の戦いにおいて、右近は信長方に与し、荒木村重討伐の軍勢に加わった。

 以降、右近は信長に重用され、鳥取城の戦い、甲州征伐に従軍して、大いに軍功を挙げたのである。キリシタンではあったが、軍事に優れていたのである。

 本能寺の変が勃発すると、光秀は娘のガラシャがキリシタンだったこともあり、その関係から右近に味方になってほしいと懇請した。光秀は、大いに期待したに違いない。

 しかし、右近は光秀の期待を裏切り、秀吉の味方になった。それどころか、続く山崎の戦いで、右近は光秀討伐の先鋒を務め、戦後はその戦功により加増されたのである。

◎細川幽斎(玄旨)

 細川幽斎と光秀とは、信長に仕えて以降、非常に懇意だったことがわかっている。幽斎は和歌や連歌に通じる文化人であり、光秀もその影響を受けたのか、連歌や茶を嗜んだ。

 光秀の娘のガラシャは、忠興(幽斎の嫡男)の妻となった。両者が強固な関係で結ばれていたのは、明らかである。光秀も幽斎を頼りにしていたと考えられる。

 本能寺の変が勃発すると、光秀は娘のガラシャの縁をたどり、幽斎に味方になってほしいと要請した。光秀は、味方になってくれると確信していたに違いない。

 しかし、幽斎と忠興は頭を剃って信長に弔意をあらわし、光秀の味方にはならなかった。光秀は書状を送り、改めて懇願したものの、最終的には断られたのである。

◎まとめ

 光秀が諸将に味方になるよう要請したものの、ことごとく断られたのは、本能寺の変の決行が十分に計画されたものではなく、突発的だったからだろう。光秀は「なんとかなる。味方になってくれるはず」と思っていたが、そうはならなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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