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織田信長だけではなかった! 宣教師フロイスが蛇蝎のごとく嫌った3人の戦国大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:アフロ)

 肥前の戦国大名・龍造寺隆信が居城とした、「須古城」の発掘調査の結果が公開されたという。こちら。隆信は九州北部に版図を広げた大名だが、宣教師フロイスから嫌われていた。

 以下、フロイスの『日本史』を参考にして、嫌われた3人の戦国大名を紹介することにしよう。

◎龍造寺隆信(1529~1584)

 龍造寺隆信がフロイスに嫌われたのには、もちろん理由があった。隆信の三男・後藤家信がキリスト教に入信を希望すると、猛烈に反対し翻意させただけでなく、キリシタンを磔刑に処した。

 天正12年(1584)の沖田畷の戦い(龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦)において、イエズス会はキリシタンの有馬晴信を支援した。

 しかし、フロイスは隆信の軍備について、カエサル(古代ローマ期の政治家、軍人)でも成しえないほどだったと評価し、隆信は6人担ぎの駕籠が必要なほどの巨漢だったが、迅速な決断力があったと褒めている。

◎松永久秀(1508~1577)

 松永久秀は法華宗に帰依していたが、将軍の足利義輝はキリスト教の布教を許した。永禄8年(1565)、義輝が三好三人衆らに襲撃されて亡くなった。

 その直後、久秀は法華宗の僧侶から多額の金銭を送られ、京都から宣教師を追放した。法華宗は仏教の他宗派すら嫌っていたので、キリスト教を目の敵にしていた。

 フロイスは久秀を「狡猾ではあるが博識である」と評価し、永禄4年(1561)段階で五畿内における最高権力者と認識し、天下を掌中に収めたとも述べている。

 フロイスは、久秀が過激な仏教の宗派・法華宗を信仰していたので、不満があったかもしれない。とはいえ、久秀は強い権力を持っていたので、しぶしぶ従ったのだろう。

◎武田信玄(1521~1573)

 武田信玄は仏教を信仰していたので、元亀2年(1573)に織田信長が比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を焼き討ちにすると、覚恕法親王を甲斐で庇護した。

 翌年、覚恕は信玄に権僧正の位を授け、仏法の再興を託した。信玄は不動明王などの神仏を信仰し、日本古来の宗教に傾倒していた。フロイスによると、信玄は1日に3回は偶像を拝むほど、熱心に信仰していたという。

 信玄が神仏を信仰したのは、熱心に祈念して隣接する諸国を奪うことにあった。一神教であるキリスト教は、偶像崇拝を認めなかったし、信玄はキリシタンになる気持ちがなかった。それゆえ、フロイスにとって、信玄は好ましくない人物になったと推測される。

◎まとめ

 フロイスはキリスト教に理解を示す武将を高く評価したが、そうではない武将を蛇蝎のごとく嫌った。フロイスが日本にやってきたのは、キリスト教の布教のためなので当然だった。とはいえ、フロイスは権力者である久秀に近づくなどし、態度を表に出さなかったようである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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