徳川家康の初陣で、今川義元を感嘆させた寺部城の戦いとは
今から488年前の弘治4年(1558)2月5日は、徳川家康が初陣飾った寺部城(愛知県豊田市)の戦いのあった日である。家康は、この戦いで寺部城を攻略し、今川義元を感嘆させたという。では、寺部城の戦いとはどういう戦いだったのか、紹介することにしよう。
弘治4年(1558)、義元の配下にあった家康は、元服して元康と名を改めた(以下、「家康」で統一する)。「元」の字は、義元の「元」を与えられたものである。
それまで今川氏が合戦をすると、松平方の岡崎衆は常に先鋒を命じられてきた。しかし、岡崎衆は必ず松平家が復活すると信じ、その苦労を耐え忍んだのである。のちに家康が今川氏から自立すると、岡崎衆は家康を守り立てた。
寺部城主の鈴木重辰は、今川氏に従っていたが、やがて離反して織田信長に与した。当時、今川氏と織田氏は互いに争っていた。重辰は織田方が有利と見て、今川氏を裏切ったのであろう。
激怒した義元は、ただちに元服したばかりの家康に寺部城の攻撃を命じた。なお、重辰の生涯は不明な点が多く、軍師の山本勘介(武田氏家臣)に兵法を授けたというエピソードがある。
これまで岡崎衆は単に今川方に従って出陣するだけだったが、今回の戦いは家康の初陣ということもあり、喜び勇んで出陣したといわれている。
家康は寺部城の攻撃に際して、「諸所の敵城より後詰せばゆゆしき大事なるべし。先ず枝葉を伐取って、のちに本根を断つべし」と言い、寺部城下に放火すると、そのまま周辺の広瀬、拳母、梅坪、伊保といった城を攻撃したのである。
その後、家康は石ケ瀬(愛知県大府市)において織田方の水野信元と戦い勝利し、信元を敗走せしめたのである。一方で、信元の忠重にとっては初陣だったが、一番槍という軍功を挙げた。なお、信元の異母妹は、家康の母の於大の方だった。
家康の周到な戦いぶりを見た岡崎衆の老将たちは、その才智に感服したと伝わっている。それは、義元も同じだった。義元は恩賞として、家康に旧領のうち山中300貫文を還付し、腰刀を贈った。
その翌年、今川領の駿府に在住していた家康は、岡崎にいた家臣と7ヵ条にわたる定書を与えた。これにより、家康は岡崎州と強固な関係を結んだのである。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで義元は信長に敗れて戦死した。これにより家康は今川方から離脱し、念願だった自立を果たしたのである。
主要参考文献
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)