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小田原北条氏の基礎を築いた伊勢宗瑞(北条早雲)のルーツは、岡山県井原市にあった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊勢宗瑞(北条早雲)。(提供:イメージマート)

 過日、岡山県井原市の「井原石材」が「早雲蜜芋」を2010年に商品化したという記事があり、それは戦国武将・北条早雲の名を冠したものだという。こちら

 現在、北条早雲とはいわなくなり、伊勢宗瑞と呼ばれるようになったが、そのルーツが岡山県井原市にあったのは事実なので、以下、解説することにしよう。

 宗瑞の出自については、古くから諸説が提示されてきた。以下、それらの諸説を取り上げることにしよう。

 『北条五代記』、『北条盛衰記』という軍記物語には、大和在原、山城宇治という説を挙げている。しかし、この説は、信頼度の落ちる史料に書かれたものであり、かつ住国について述べているだけなので、現在では否定されている。

 宗瑞の伊勢という名字にも関連しているが、伊勢国関出身説もある。こちらの説は、『北条記』、『相州兵乱記』に書かれたものであり、宗瑞が信濃守護小笠原定基に宛てた書状にも記されている。

 書状の内容から、宗瑞は伊勢国関出身の武士であるとされ、この説は中世史家の田中義成氏らによって支持された。しかし、宗瑞の書状をめぐっては、史料解釈に問題があると指摘され、今となっては伊勢国関出身説も否定されている。

 伊勢つながりで提起されたのが、京都の伊勢氏出身説である。この説は、中世史家の渡辺世祐氏らによって支持された。伊勢氏は、室町幕府の政所執事を務めた名族である。

 渡辺氏は『寛政重修諸家譜』などにより、伊勢貞親の弟の貞藤の子が宗瑞であると指摘した。これまで、宗瑞は一介の素浪人であるとされていたが、逆にそれなりの名族であると論じられたのである。

 のちに注目されたのは、備中国出身説だった。備中国出身説は編纂物の『今川記』、『太閤記』に書かれていたので、古くから知られた説だったが、ほとんど顧みられることがなかった。

 この説を提起したのは中世史家の藤井駿氏であり、根拠史料として「法泉寺文書」を用いた。その結果、備中国荏原荘(岡山県井原市)に本拠を置く伊勢盛定の次男で、もとの名を盛時といったことが判明したのである。この説は多くの支持を得ることになり、現在では定説となっている。

 伊勢氏が荏原荘に入部したのは、室町時代の初期のことである。宗瑞の曽祖父の経久は、荏原荘内に祥雲寺を創建し、高越城を居城としたと考えられる。その後、経久は荏原荘を二つに分けて、盛経と盛景に与えた。

 宗瑞の祖父が盛経で、父が盛経の子の盛定である。盛定は足利義政の申次衆を担当しており、備中守護の細川氏と懇意にしていた。また、盛定は今川義忠の申次を担当していたので、娘を義忠に嫁がせたのである。

主要参考文献

池上裕子『北条早雲』(山川出版社、2017年)

下山治久『北条早雲と家臣団』(有隣新書、1999年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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