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大坂夏の陣後、捕らえられて悲惨な死を遂げた豊臣方の武将たち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、徳川方が豊臣方を破り、戦いは終結した。戦後、豊臣方の武将は次々と捕らえられ、悲惨な最期を遂げた。そうした人々を取り上げることにしよう。

 慶長20年(1614)5月の大坂夏の陣で大坂城が落城すると、豊臣方で戦った武将はそのまま城内で自害するか、城外へと逃亡した。勇ましく戦場に散った武将も多かったが、負けたら逃げるしかなかった。

 戦後、徳川方は豊臣方に与した武将を捕らえるため、落人狩りを執拗に行った。その結果、豊臣方の多くの武将は、徳川方の追っ手から逃れられず、次々と捕らえられたのである。

 大野治長の弟で、道犬とも称された治胤は、大坂からの逃亡中に身柄を拘束されていた。同年5月23日、治胤は京都で捕らえられたのである(『孝亮宿禰日次記』)。

 捕らえられた日にちは、同月20日という説もあるが(『駿府記』)、実際には21日が正しいようである(『譜牒余録』)。治胤は豊臣方の主力の武将だったので、徳川方は探索に懸命だったに違いない。

 野間金三郎と小林田兵衛は、治胤を捕らえた恩賞として、治胤の差していた大小の刀を与えられた。治胤の最大の罪状は、大坂夏の陣で堺(大阪府堺市)を焼き討ちにしたことだった。

 そこで、幕府は堺奉行の長谷川藤広に命じて、わざわざ堺で処刑したのである(『駿府記』)。しかも、治胤の処刑の方法は、火あぶりの刑だった(「中山文書」)。堺を焼き払った見せしめということになろう。

 少し変わったところでは、細川興秋という人物がいる。興秋は忠興の次男だったが、慶長10年(1605)10月に人質として江戸へ向かう途中、にわかに逃亡し牢人となった人物である(『綿考輯録』)。

 出奔した理由は、将来的に細川家の家督を継ぐ可能性がなくなったからだろう。その後、興秋の動向は長らくわからなかったが、大坂の陣の開戦とともに豊臣方に味方した。忠興は徳川方に味方したので、興秋の裏切り行為に頭を抱えたことだろう。

 大坂夏の陣後、大坂城から脱出した興秋は、伏見(京都市伏見区)に潜伏していたが、徳川方に捕らえられた。家康は興秋の罪は重いとの考えを示したが、忠興の多年にわたる功績があったので、その罪を許そうとした。

 ところが、忠興は興秋に切腹を申し付けたのである。これは、忠興としてのけじめであろう。興秋は、山城国東林院(京都市右京区)で自害して果てたのである。

 豊臣方に与した武将で、大坂夏の陣後に捕らえられた者は数多い。ここで挙げたのは、ほんの一部である。その多くは捕らえられたのち殺されたが、仮にうまく生き延びたとしても、普通に生きていくことは極めて困難で、常に徳川方の監視を気にしなければならなかったのだ。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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