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大坂夏の陣で豊臣秀頼は自害したのではなく、薩摩へ逃亡したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
清涼寺。豊臣秀頼首塚と釈迦堂。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、大坂夏の陣で豊臣秀頼は自害して果てた。秀頼が大坂城で切腹したのは通説であるが、城を脱出して薩摩へ逃れたという説もあるので、検討することにしよう。

 慶長20年(1614)5月の大坂夏の陣で、秀頼は腹を切って死んだが、「生きている」という噂も流れていた。『リチャード・コックス日記』には、秀頼と真田信繁が薩摩(あるいは琉球)に逃れたという噂が流布していたと書かれている。

 当時、京童部は「花の様なる秀頼様を 鬼のやう成る真田(=信繁)が連れて 退きものいたよ加護島(=鹿児島)へ」と歌っていたという。つまり、信繁が秀頼を連れて、鹿児島に逃れたということになろう。

 信繁や秀頼が薩摩国に逃れたとの伝承は、たしかに残っている。谷山村(鹿児島市)には、秀頼の墓があったと伝わっているほどだ(『採要録』)。

 この村には秀頼の子孫の「本木下」と「脇木下」(木下は、かつて秀吉が名乗っていた姓)という2つの家があり、それぞれが家系図を所蔵していた。系図には「豊臣右大臣(=秀頼)」と書かれており、人には決して見せなかったと伝わっている。もう少し、詳しく確認してみよう。

 元和年間の初頭、この地に牢人が住み着き、国主(=島津氏)から家を与えられ、相応の金銭が与えられた。牢人の名は不明である。牢人は酒好きで、酔ってはいつも意味不明なことを叫び、働く様子はなかった。牢人は疲れると路上で寝たりして、まるで狂人のようだったので、「酔人の俗言」とあだ名された。

 国主は、牢人が何か問題を起こしても、疎略な扱いをしないよう命じたので、誰も面倒に思って相手にしなかった。牢人は、中年になって谷山で没した。内々の話によると、牢人は秀頼であると噂され、顔が面長で愚かに見えたという。

 浄門ヶ嶽(鹿児島県南九州市)の麓に、どこからとなく山伏が来て住んでおり、人々から恐れられた山伏は信繁だったという話がある。豊臣秀頼も生き延びて同行していたという。

 豊臣家家臣の木村重成も薩摩へ逃れ、加治木浦(鹿児島県姶良市)で有岡半右衛門と名を変え、谷山(秀頼と称する人物の居所)をたびたび訪問したといわれており、この3人は夜中に鹿児島を往来したとの伝承が残っている。

 『採要録』には「この話は分明ではないが、地元の人が語る言葉を記して置くものである。信じるわけではないが、捨て置くものでもない。のちの人の考証に委ねるべきであろう」と書かれている。やはり、明確な根拠がないので、単なる噂話と考えざるを得ない。

 名のある武将が戦死すると、人々は「彼くらいの武将ならば戦死せず、窮地を脱して生き延びているはず」という願望を込めて、逃亡説を支持した。とはいえ、それは根拠のない妄説で、ただの作り話である。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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