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宇喜多氏の改易後、明石掃部ら大量に発生したキリシタン牢人の厳しい事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
南原千畳岩の宇喜多秀家の石像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、牢人たちが大量にいる場面が描かれていた。関ヶ原合戦で宇喜多氏が敗北すると、その配下の明石掃部ら大量のキリシタン牢人が発生した。その厳しい事情を取り上げることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日、徳川家康の率いる東軍は、石田三成らの西軍を打ち破り勝利した。西軍の中心メンバーだった宇喜多秀家は逃亡し、のちに改易となった。

 その際、改易された宇喜多家中から大量の牢人が発生したことは、もはやいうまでもないだろう。具体的には、どのような面々がいたのだろうか。

 まず、挙げておかなくてはならないのが、宇喜多秀家の重臣でクリスチャンの明石掃部である。明石掃部の詳しい事績は、あまり知られていない。掃部は宇喜多騒動で重臣らが次々に家中を離れる中、宇喜多家に止まって西軍に属して戦った。

 東軍についた宇喜多氏旧臣の戸川達安を翻意させるべく、調略をしたことが知られている(「水原岩太郎氏所蔵文書」)。しかし、達安は調略に応じることなく、掃部は関ヶ原で敗北を喫したのである。

 掃部は関ヶ原合戦以前に、キリシタンに改宗していたことが知られる(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。明石掃部と同様、秀家の従兄弟である浮田左京亮もキリシタンであった。おそらく、彼らの配下の者にもキリシタンが多かったに違いない。

 備前国内には、相当な数のキリシタンがいたといわれている。明石掃部は関ヶ原合戦で敗戦後、3000人のキリシタンとともに黒田長政の領する筑前国に移った。かつて長政もキリシタンであり、明石掃部以外にも、多くのキリシタン牢人を抱えていたという。

 慶長19年(1614)3月、加賀藩前田家から追放されたキリシタン武士の中に宇喜多休閑の名を見出すことができる(『越登賀三州志』)。休閑については、知るところがほとんどないが、宇喜多氏の関係者であることは一目瞭然である。秀家の妻・豪姫が前田家の出身であったので、その縁を頼って庇護を求めたのであろう。

 そして、ほぼ同じ頃、秀家に仕えたグュザ(Guiuzza)なる人物と3人の子が前田家を追放され、津軽に送られたという。休閑とグュザは、同一人物である可能性が高い。前田家の対応は、慶長17年(1612)に発布された禁教令を受けたものであった。

 このように宇喜多氏配下の掃部らは、キリスト教の縁や姻戚関係を頼りにして、有力者に庇護を求めたことを確認できる。関ヶ原合戦直後はキリスト教にまだ寛容であり、彼らを受け入れるキリシタン大名も存在した。

 ところが、禁教令が発布されると状況は一変した。キリシタン大名やキリスト教に寛容だった大名は、キリシタン牢人を受け入れるのが困難になったのである。やがて、キリシタン牢人の行き場はなくなった。

 こうしたキリシタン牢人は、のちの大坂の陣で豊臣方に与することになり、家康を大いに苦しめることになったのである。

主要参考文献

渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』(角川学芸出版、2012年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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