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徳川家康に叱責された子の秀忠。秀忠は関ヶ原合戦でそんなに酷い大失態を演じていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川秀忠。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康が征夷大将軍に就任し、秀忠に将軍職を譲る場面があった。一方で、家康は関ヶ原に遅参した秀忠を責め続け、奮起を促していたが、秀忠はそんなに酷い大失態を演じたのか、考えることにしよう。

 家康には後継者の嫡男・信康がいたが、天正7年(1579)9月に謀反を画策したので自らの判断で斬った。次の後継候補は次男の秀康だったが、家康は秀康を嫌っていたという。

 一説によると、秀康は「畜生腹」といわれた双子だったので、家康が秀康を遠ざけたといわれているが、俗説にすぎないだろう。その後、秀康は豊臣家の養子となり、さらに結城氏の養子として迎えられた。

 三男の秀忠は中納言に叙位任官され、江戸城に住むなどしたので、家康の後継者になるのは既定路線だったという。秀忠の母は、三河の国衆でかつて三河守護代を務めた西郷氏だった。当時、母の家柄が尊重されることは、珍しいことではなかった。

 一方の秀康の母は永見氏の娘といわれており、あまり身分が高くなかった。家康は母の家柄を重視し、早くから秀忠を後継者として定めた可能性が高い。

 関ヶ原合戦のとき、秀忠には中山道からの行軍を命じたが、秀康は宇都宮(栃木県宇都宮市)で上杉景勝の押さえを命じられた。これも、秀忠に手柄を立てさせようとする家康の配慮だろう。

 秀忠は真田昌幸・信繁父子が籠る上田城(長野県上田市)を攻撃したが、なかなか落とせなかった。やがて、家康からの命令もあり、ただちに関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)に引き返した。ところが、途中の悪天候などにより、秀忠が関ヶ原に到着したのは合戦後だったという。

 関ヶ原合戦後の9月20日、秀忠はようやく草津(滋賀県草津市)に到着し、家康が滞在する大津城(同大津市)に向かった。しかし、家康は遅参した秀忠に怒りを禁じえず、気分がすぐれないとの理由で面会を拒否した。

 一説によると、秀忠の部隊はまったく整っておらず、バラバラに到着したので、その状況を見た家康は余計に機嫌を悪くしたと伝えている。とはいえ、たしかな史料に書かれたものではなく、このエピソードはあまり信が置けない。

 重要なことは、家康自身が秀忠に「真田を討て」と命じたことで、ましてや9月15日に関ヶ原で戦うことは、当初から決まっていたわけではない。ただし、秀忠が寡兵の真田を早々に討てなかったのは、少しばかり誤算があったかもしれない。

 戦いが佳境に迫り、家康は秀忠の軍勢を待たなくても、自身の率いる部隊だけでも西軍に勝てると考えた。そうでなければ、西軍との戦いに臨まないだろう。

 秀忠の遅参は、大失態と言えばそうかもしれないが、実際は連絡の遅延や悪天候という悪条件が重なるという不幸が重なった。秀忠は戦場に遅参したにもかかわらず、二代将軍に就任したのだから、家康は別に失態とは思っていなかったに違いない。

 後世の編纂物が秀忠の失態をことさら強調するのは、何らかの意図があったのではないだろうか。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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