壇ノ浦の戦いで源義経が演じた大失態。安徳天皇の入水と宝剣の喪失の経緯
今でも会社などで、社員が取り返しのつかない大失態を演じることがあろう。それは源義経も同じで、壇ノ浦の戦いで安徳天皇を助け出せず、三種神器のひとつの宝剣を喪失した。その顛末を確認しよう。
文治元年(1185)3月、源氏と平氏が雌雄を決した壇ノ浦の合戦が行われた。源頼朝は、四国から兵糧の窮乏を訴える弟の範頼に対し、安徳天皇の身柄を安全に確保するように求めた。その理由は、安徳天皇を失うことにより、神仏の加護から見放されてしまうと考えたことがあろう。
ところが、現実の問題として、朝廷との関係を考慮すれば、安徳天皇と三種神器の確保はもっとも重要だった。頼朝は範頼に対し、加えて三種神器の確保を要請したのは、そういう事情があろう。むろん、義経も共有していたに違いない。
壇ノ浦の合戦が始まると、平氏は呆気なく敗北した。敗北が明らかになると、二位尼が宝剣を持って入水し、同じく按察局が8才の安徳天皇を抱えて入水したのである。
神璽の箱は、海上に浮かんでいるところを確保できた。しかし、宝剣が海底に沈んで戻らなかったことは、大問題となった。平氏追討に向かった義経は、出発前に後白河法皇に召され、三種神器を無事京都に持ち帰るよう命じられていた(『源平盛衰記』)。
後白河法皇の要請に対して、義経は三種神器の確保を確約していたので、宝剣を失ったことは、義経をはじめとする征討軍の大失態だったといえよう。
その後、鎌倉の頼朝のもとに、義経からの一巻記が届けられた(『吾妻鏡』)。一巻記には、壇ノ浦の戦いで捕らえた平氏側の人物の名前、そして入水した人物の名前が書き上げられていた。
問題だったのは、冒頭に安徳天皇の入水が記されており、末尾には宝剣のみが戻らなかったことが書かれていたことだった。頼朝は部下が読み上げるのを聞いた後、声を発することができなかったという。それほどの大失態を義経は演じたのだ。
一方の義経も、反省の思いを禁じえなかった。一巻記には、引き続き宝剣の探索を行っている旨が記されている。しかし、広大な海の中で宝剣を見つけ出すことは、事実上不可能に近い。その探索も困難を極めると、いよいよ神頼みに転じることになった。
義経は宇佐神宮(大分県宇佐市)に願文を奉じ、もし宝剣が見つかったならば、宣旨を下し神位を寄進すると記した。願文では神位を寄進するという、本来朝廷が行うべき行為を持ち出しており、義経の強い焦りを見ることができよう。
しかし、ついに宝剣は海中深く沈んだまま、見つからなかったのである。このことは、のちに義経を不幸のどん底に陥れたのである。