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上杉景勝の動向を注視していた堀氏が徳川家康に「景勝に謀反の意あり」と讒言した理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、もうすぐ関ヶ原の戦いが勃発しそうである。会津に帰国した上杉景勝は、徳川家康の再三にわたる上洛の要請にもかかわらず、ついに応じることはなかった。

 景勝が要請に応じなかったのは、堀氏が家康に「景勝に謀反の意あり」と讒言したからだったというが、その理由を考えてみることにしよう。

 慶長3年(1598)1月、豊臣秀吉から会津(福島県会津若松市)への国替えを命じられた景勝に代わり、堀氏が越後国に入封した。しかし、越後国に入った堀氏は、景勝が農民を会津に連れて行ったので驚倒した。

 持ち去られたのは農民だけではなく、収穫した米などの年貢もである。ところで、景勝は領内整備を進めていたが、新しい城を築城するなどしたので、それは合戦準備ととらえられた。

 一方、堀氏も上杉氏が去った後の越後国内の状況に大きな不安を抱いていた。『会津陣物語』には、次のとおり書かれているる(現代語訳)。

 殊に越後は上杉氏の旧領なので、国中の民(農民など)が景勝を父母のように慕っている。

 これにより一揆を起こされることを気遣って、枕を傾けて眠ることができず、もし公儀(豊臣家)がなおざりに考えて措置が遅れたならば、天下の大事になるということを家老の堀直政が注進を行った。

 堀氏は景勝の軍備を拡張していることに加え、越後国内で景勝を慕う農民らが一揆を起こすのではないかという危険性を家康に切々と訴えたのである。

 堀氏は先述のとおり、農民や年貢を景勝に持っていかれたので、財政的な苦境に喘いでいた。そのうえ、越後国に残った農民らに一揆でも起こされたら、たまらないということになろう。

 これまで、堀氏が家康に訴えたのは、慶長5年(1600)2月のこといわれてきたが、この点については水野伍貴氏が次のように指摘している。

①慶長4年(1599)10月に家康が前田利長を討伐しようとした際、堀氏は何度か景勝の不穏な動きを報告していること(『看羊録』)。

②慶長5年(1600)1月に藤田信吉が上洛して家康に年頭の礼を述べた際、家康は景勝の上洛を促していること(堀氏の一件も尋ねようとした)。

 

 水野氏はこのことから、慶長5年(1600)2月以前に堀氏が家康に報告したと指摘する。堀氏が越後に入部した直後には、景勝が越後国内の年貢や農民を会津に持ち去ったことが発覚した。

 堀氏は財政難に悩まされていたのだから、以後、折に触れて家康に窮状を訴えていた可能性は高いのではないだろうか。

主要参考文献

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』(日本史史料研究会、2016年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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