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豊臣秀吉の命により、子の秀忠を上洛させた徳川家康の深刻な事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川秀忠。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」ではスルーされていたが、徳川家康は豊臣秀吉の命によって、子の秀忠を上洛させていた。なぜ、家康は実質的な嫡男の秀忠を上洛させたのか、その事情を考えることにしよう。

 天正17年(1589)9月、秀吉は各地の大名に対して、妻子を上洛させ住まわせるよう命じた。妻子は人質として、諸大名が秀吉に忠誠を誓う証となった。いかに家康のような大身大名であっても、まったく例外を認められなかった。

 そこで、家康は三男の秀忠(当時は長丸)を上洛させ、人質として送り込むことを決意した。とはいえ、家康にとって、秀忠を手放すことは断腸の思いだったに違いない。

 天正7年(1579)9月、家康は謀反の意を示した嫡男の信康を自らの意志で自害に追い込んだ。同年、家康と西郷殿との間に産まれたのが秀忠なのである。

 信康の死後、次男の秀康は、すでに秀吉の養子として送り込んでいた。そのほかの男子も、東条松平家、穴山武田家を継がせていたので、秀忠は次期徳川家の当主となる大切な男子だったのである。

 秀吉は家康の事情を知ったこともあり、秀忠の上洛する時期について、少しばかり時間の猶予を与えた。同時に、家康に在京賄料(在京時の生活費を賄う所領)を近江国内に与えるなどした。

 家康は秀吉の寛大な措置に対して、側近の木下吉隆と長束正家を通して書状を送り、お礼の意を伝えた。こうして家康は、時間の猶予をもらったとはいえ、できるだけ早く秀忠を上洛させようとしたのである。

 天正18年(1590)1月、家康はようやく準備を整えて、秀忠を上洛させた。秀忠の上洛は秀吉の要請でもあるので、できるだけ早く従うことにより、忠節の意を示したのである。

 秀忠の上洛の意味は、単に人質としてだけではなかった。同年1月、家康は妻として迎えた朝日姫(秀吉の妹)を病気で失っていた。これにより、婚姻を通した同盟が断絶した形になっていたのである。

 これ以前、秀吉は養女として、織田信雄の娘の小姫君を迎えていた。実は、秀忠が小姫君を妻として迎え、再び豊臣家と徳川家の強固な関係を築こうとしていた。

 こうして同年1月、2人は聚楽第で祝言をあげたのである。しかし、まだ小姫君は6歳だったので、結婚というよりも婚約に近かっただろう。まだ、幼いカップルだった。

 秀忠は小姫君との祝言を終えた直後、国許へと帰った。翌年7月、小姫君は不幸にも病没したので、2人の婚姻関係はほんのわずかな期間しか続かなかった。

 一説によると、小田原合戦直後、信雄が改易されたので、2人の婚姻(あるいは婚約)が成立しなかったという説もある。しかし、小姫君はあくまで秀吉の養女なので、成立したとみなすのが自然だろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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