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武田氏滅亡が確実になった。仁科盛信の凄絶な最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
高遠城址公園。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡の場面が省略気味だったが、仁科盛信の凄絶な最期はハイライトの一つなので取り上げておこう。

 天正10年(1582)2月、織田信忠は10人ばかりの配下の者を引き連れ、武田方の仁科盛信が籠る高遠城(長野県伊那市)を偵察した。高遠城の後背は陸続きで、三方が険しい地形だった。周囲は三峰川が東から西に流れ、藤沢川が北から西に流れていた。

 高遠城はその合流地点の峻厳な段丘上に築かれており、侵攻ルートは限られていた。しかし、案内役の小笠原信嶺は三峰川の浅瀬を発見し、織田軍はそこから高遠城の大手口に攻撃しようと計画したのである。

 武田方に与していた保科正直は、飯田城(長野県飯田市)から高遠城に逃亡していた。ところが、正直は信嶺と内通しており、夜中に放火して武田方を裏切る計画だった。しかし、高遠城の武将に隙が無く、計画は失敗に終わったという。

 信忠は盛信のもとに僧を派遣し、武田家の滅亡が近いので、城を出て降参するよう勧告した。しかし、信盛は要求に応じず、僧の耳と鼻を削ぎ追い返したという。信忠は仕方がなく、わずか3千の兵が籠る高遠城を攻撃したという。

 同年2月3日の早朝、織田軍は高遠城に総攻撃を仕掛けた。大手口からは信嶺や森長可が攻め込み、搦め手からは信忠が攻撃した。信忠も先頭に立って戦うと、織田軍が続けて城内に乱入し、武田勢を討ち取ったのである。

 諸史料によると、武田方の諏訪勝右衛門の妻が緋威の鎧に薙刀を引っ提げ、7・8人を討ち果たすと、自害して果てたという。また、15・6歳の若武者が弓で織田方の将兵を射殺し、矢が尽きると刀で戦い、ついには討ち死にしたと伝わる。

 やがて、屋根に登った織田方の森長可は、屋根の板を引きはがして、城の内部に鉄炮を撃ち込んだ。盛信は床の上に座ると、腹を切って腸をつかみ、唐紙(障子)に擲ち、倒れてそのまま亡くなったという。

 まだ20代の盛信の凄絶な最期だった。城内の大広間の天井や柱には、槍や太刀の傷が残り、すっかり血で染まっていたと伝わっている。最終的に武田方は、盛信以下、4百名以上の者が討ち死にした。

 盛信の首は織田方に届けられ、首実検を経てほかの戦死した武田一族とともに、京都の一条通で晒された。織田軍が高遠城から撤退すると、勝間村の村人が盛信の胴体を探し出して火葬し、手厚く葬ったといわれている。葬った場所は盛信の仮名の五郎にちなんで、五郎山と名付けられた。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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