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武田勝頼から離反者が続出。浅間山が大噴火した不吉な予兆とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
浅間山。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡の部分がスルー気味だったが、家臣が次々と離反した事実を取り上げることにしよう。

 天正10年(1582)2月以降、織田信長は武田勝頼を討つべく、甲斐に向かって軍勢を発向させた。受けて立つ勝頼は織田軍を迎え撃つため、滝ヶ沢(長野県平谷村)に要害を築くと、下条信氏に守りを命令した。

 しかし、突如として信氏の家臣・下条九兵衛が武田氏を裏切り、主君の信氏を要害から追い出した。そして、あろうことか、織田方の河尻秀隆が率いる軍勢を岩村口(岐阜県恵那市)から招き入れたのである。

 同年2月11日、織田信忠は岐阜を発つと、その3日後に岩村に到着した。この日、松尾城(長野県飯田市)主で武田方の信濃先方衆の小笠原信嶺が武田氏を見限り、織田方に与した。この裏切りも想定外だった。

 森長可らが率いる織田軍は清内路口から伊那(長野県伊那市)へ軍勢を進めると、飯田城(同飯田市)を攻撃した。同城を守っていた保科正直らはたちまち敗北し、城外へ逃げ出した。以降も、織田軍は戦いを有利に進めたのである。

 両軍が戦っている最中の2月14日には、浅間山が噴火した。東国においては、浅間山が噴火すると、異変が起こる前兆とされていた。噴火の日が武田軍との敗北と同じだったため、武田軍の将兵は大いに動揺し、士気が下がったのではないかと指摘されている。

 同年2月16日、武田軍は今福昌和を侍大将として、織田方に寝返った木曽義昌を討つため鳥居峠へ向かわせた。義昌は織田の援軍と笛木氏らで武田軍を迎撃し、勝利した。武田軍は四十余名が戦死したという。武田軍は織田軍に対処すべく、深志(長野県松本市)の城に馬場昌房を置いた。

 勢いに乗った信忠の率いる織田軍は、平谷から飯田へと軍を進めた。同年2月17日、勝頼は信忠を迎え撃つべく、叔父の信廉(信玄の弟)を大島城(長野県松川町)に入れ、小原継忠らとともに守備をさせた。

 しかし、大島城は織田軍に攻められ、その日の夜に落とされ、織田方の河尻秀隆らが大島城に入った。その後、先陣が森長可らに命じられ、さらに織田軍は飯島(長野県飯島町)へ軍勢を進めたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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