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徳川家康を支えた徳川四天王とは、いったいどういう人たちなのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
彦根駅前の井伊直政像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ようやく徳川四天王の面々が出揃った。徳川家康を支えた徳川四天王とは、いったいどういう人たちだったのか、考えることにしよう。

 徳川家康を支えた徳川四天王とは、酒井忠次(1527~96)、本多忠勝(1548~1610)、榊原康政(1548~1606)、井伊直政(1561~1602)の4人の重臣である。

 では、当時から徳川四天王と呼ばれていたのかといえば、けっしてそうではない。時期は不詳ながらも江戸時代以降に称されたもので、仏教の四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)からヒントを得たものであると考えられている。

 こうした例は、ほかにも見られる。黒田氏配下の「黒田八虎」、武田氏配下の「武田二十四将」など、例を挙げるとキリがないくらいだ。いずれも当時からそう呼ばれたのではなく、江戸時代以降、そのように称されたのである。

 徳川四天王のほかにも、徳川三傑(徳川三人衆)というものがある。その3人とは、酒井忠次を除いた本多忠勝、榊原康政、井伊直政の面々である。では、なぜ酒井忠次は除かれたのであろうか。もちろん、それには理由があった。

 酒井忠次はもっとも年長であり、天正16年(1588)10月に隠退し、家督を子の家次に譲っていた。一説によると、忠次は眼病に罹ったので、隠退を決意したといわれている。忠次が亡くなったのは、慶長元年(1596)10月28日である。

 つまり、忠次は主に家康の前半生を支え、江戸に入る前に退いた。一方、本多忠勝、榊原康政、井伊直政は、家康の後半生を支えたということになろう。特に、天下分け目の慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、抜群の働きをしたといえよう。

 中でも本多忠勝と井伊直政は、関ヶ原本戦だけではなく、合戦前の西軍諸将への調略、戦後処理に至るまで大活躍した。榊原康政は徳川秀忠とともに上田城を攻撃したが、戦いが長引き関ヶ原に遅参した。その後、康政は失態を犯した秀忠を救うべく、家康と秀忠との間を取りなしたという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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