武田信玄の不慮の死で、大ピンチに陥った足利義昭
大河ドラマ「どうする家康」では、武田信玄の最期が描かれていた。信玄が亡くなったことで、政局にどのような影響があったのか考えることにしよう。
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、本拠の甲府を発った。同年12月、信玄の軍勢は三方ヶ原の戦いで、織田信長・徳川家康連合軍を討ち破った。これにより、信長と家康は最大の危機を迎えたが、信玄には病が忍び寄っていた。
合戦後、信玄は吐血するなどし、体調が徐々に悪くなっていた。当主の信玄が病気になったので、武田軍は撤退を余儀なくされた。翌年4月12日、信玄は撤退途中の信濃伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村)で亡くなった(亡くなった場所は諸説あり)。
信玄は死の間際に「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める」こと、「瀬田(滋賀県大津市)に武田軍の旗を立てる」ことを遺言したという。前者は他国から攻められることを危惧し、後者は上洛を意味するものだろう。
また、勝頼には「信勝(勝頼の子)の家督継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」と言い残したという。謙信は、信玄のライバルだった。以上の信玄の遺言のうち「遺骸を諏訪湖に沈める事」というのは、疑わしいと指摘されている。
信玄の没後、子の勝頼が家督を継承した。勝頼は信玄の遺言を守り、葬儀を実施しなかった。天正3年(1575)、勝頼は信玄の三周忌の仏事を催し、その翌年に恵林寺(山梨県甲州市)で信玄の葬儀を執り行ったのである。
元亀4年(1573)2月、足利義昭は信玄が生きているという前提のもとで、信長に反旗を翻した。しかし、戦いの結果は信長が勝利し、義昭は敗北した。こうして室町幕府は滅亡し、義昭は京都からの退去を余儀なくされたのである。
義昭の作戦は見事に失敗したが、もし仮に信玄が生きていたならば、状況はかなり変わったかもしれない。一方の信長や家康にとって、信玄の死は福音そのものだったのである。