大河ドラマでは完全スルーされた、浅井久政・長政親子の最期
大河ドラマ「どうする家康」では、浅井久政・長政親子の悲惨な最期がスルーされた。浅井久政・長政親子は、どんな最期を迎えたのか考えることにしよう。
天正元年(1573)8月、織田信長の軍勢は越前一乗谷(福井市)に攻め込み、その後、朝倉義景を自害に追い込んだ。義景の死によって、朝倉氏は滅亡した。朝倉氏の滅亡後、信長がターゲットにしたのは、朝倉氏と同盟を結んでいた浅井久政・長政父子である。
長政は朝倉氏の滅亡を知ると、すでに決戦への覚悟を決めていたという。8月26日、越前を出発した信長は、浅井氏の居城の小谷城に近い虎御前山(以上、滋賀県長浜市)に陣を敷いた。いよいよ、両者は対決することになったのだ。
8月27日、信長は配下の羽柴(豊臣)秀吉に対し、小谷城を攻撃するよう命じた。小谷城の本丸には長政、北の小丸には久政が入り、城を守っていた。とはいえ、信長の圧倒的な攻撃力の前に、浅井氏はあまりにも無力だったといえる。
秀吉の軍勢が攻め込むと、久政は配下の者とよく防いだが、最期は自害して果てた。久政は舞楽の鶴松なる者を逃がそうとしたが、鶴松は切腹した久政の介錯をして、運命をともにしたと言われている。もはや、浅井氏の運命は風前の灯火だった。
8月28日、信長は秀吉に命じて、小谷城の京極丸を攻撃させた。ここで長政は意を決し、妻のお市(信長の妹)と娘の3人(茶々、初、江)を信長のもとに送った。こうして長政は、城内で自害して果てたのである。享年29。
長政の切腹した日は、これまで8月28日が有力視されてきた。しかし、その後の新たな長政の書状の発見などによって、9月1日が正しいとされている。すでに、この時点で天正に改元されていたが、長政の書状は従来の元亀を用いていた。信長への抵抗の意思を示したのだろう。
なお、10歳の嫡男・万福丸は織田軍に捕らえられ、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で磔刑に処せられた。こうして浅井氏は滅亡し、戦いで活躍した秀吉には、浅井氏の旧領が与えられたのである。