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大河ドラマでは省略された、朝倉義景のあまりに悲惨な最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
一乗谷朝倉氏遺跡の唐門。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、朝倉義景の悲惨な最期が省略された。織田信長の攻撃を受けた義景は、どんな最期を遂げたのか解説することにしよう。

 天正元年(1573)7月26日、京都を出発した信長は、巨大な船に乗って近江高島郡へと向かった。信長は軍勢を陸路からも送り込むと、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を落城に追い込んだ。この勝利により、織田方は湖西方面で有利な立場になった。

 同年8月、浅井氏に与していた阿閉氏、浅見氏が寝返り、信長のもとに走ったので、朝倉・浅井連合軍の形勢が不利になった。同じ頃、朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで進軍すると、信長軍との戦いに臨んだのである。

 信長軍は朝倉軍を打ち破ると、越前へ撤退する朝倉軍を容赦なく追撃した。そのため、朝倉軍の約3000の兵は、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまでに次々と戦死したという。討ち死にした将兵の中には、朝倉氏の一族や重臣がいたので、朝倉氏の敗勢が濃くなった。

 同年8月、織田軍が敦賀から越前国内に侵攻すると、一乗谷(福井市)を焼き討ちにした。館や人々の住居だけなく、寺社もすべて焼き尽くされ、火災は三日三晩にわたったと伝わっている。一乗谷は、あっという間に灰燼に帰したのである。

 義景は平泉寺の衆徒を援軍に頼んでいたが、ついに馳せ参じることがなかった。もっとも大きなダメージだったのは、一族の朝倉景鏡が寝返ったことだった。景鏡は義景に使者を送り、一乗谷を捨てて賢松寺(福井県大野市)に逃げるよう進言した。

 義景は景鏡の助言に従い賢松寺に行くと、200余騎の軍勢を率いた景鏡に攻め込まれた。景鏡軍は、一斉に賢松寺に鉄砲を放ったという。ここで意を決した義景は、自害して果てたのである。享年41。義景の最期には、わずかな家臣しか従っていなかったという。

 その後、義景の母と次男の愛王丸は織田軍に捕まって殺害された。潜んでいた朝倉方の諸将は信長に降伏し、景鏡は義景の首を信長に差し出した。こうして朝倉氏は滅亡したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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